素晴らしいお顔の継続

2011年03月07日(月曜日)

 誰しもがそうですが、私も生まれた時には、泣きながら生まれてきました。しかし周りの人たちは、その誕生を喜んで笑顔である。そう人は、泣きながら生まれてくるが周りの人たちは笑っている。その逆で人が死んで行くときには、本人は、笑っているのに周りは、泣いている。私は、葬儀に際していつも故人のお顔を拝した時にどなたも皆笑って幸せなお顔をしているのです。ちょっとしたことでありますけど人生って妙だなぁって感じました。 臨終送別に際して教決を授けますが、恩師が仰せのように、「別れに遭うては、身を作が如くす悲しみ且つ歎く即ちこれ徒労のなみだなり」という一節を思い出します。法華経の功徳によって成仏した。それこそ最高の喜びなのだとから、悲しみの涙は、徒労なのだとの教えでございます。しかしこの事は、一見すると無慈悲の言葉に聞こえてくるかもしれませんが、大慈悲から出たお言葉でありこれこそ最高の教えなのだと実感しました。母を失い一人ぼっちになってしまった様な感傷に浸っていた時に自らこの教決を母に授けた時私は、生まれて育てて頂きそれこそ沢山の先祖の思いによって形成された自分の使命を全うする事立ち向かう勇気を頂きました。悲しみ埋もれて為すべき事を忘れたらせっかく笑って死んでいったのにまた悲しませるのかとこれではいけないと実感いたしました。人は、泣きながら生まれて笑いながら死んでいく。しかしその長い人生の中には、とても簡単には、割り切れぬ物語があります。その思い出をどの様に自身にとって良い方向に転じて行くか、これは、私も含めて残された人々全ての課題です。どの様な災いが起ころうともこれを転じて福となすことによって、やはり笑顔で死んでいった方々の笑顔を継続しない事には申し訳ないとおもいました。
 日々の御修業の中で祈る事は、本当に沢山の事があります。その意味を一つ一つ書く事は、いたしませんが、自分自身についての祈りの事を少しだけ書かさせて頂きます。私は、幼いころより本当に泣き虫で臆病ものでありました。いま臆病者であります。しかし私には、その臆病な心とは、逆に勇一郎ととても勇ましい名前があります。勇一郎でありますように、何事においても逃げださず向かっていける勇気を下さいと日々の御修業において別願としてお祈りいたしております。その様に一個人としての私は、とても臆病者でありますけどお題目のちからを頂いて日々無事に過ごす事が出来ています。
 結果が伴わない事も多々あるがやはり一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまぬ精神を宿らせて下さいと常にお祈りをする日々です。すばらしい笑顔が続くように共に精進いたしましょう。

国柱会賽主 田中壮谷




真世界巻頭言


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