2024年09月15日(日曜日)
この度私は、日本の最高峰である富士山を登頂してまいりました。
恩師田中智学先生は、かつて大正十一年七月に富士登山宣伝隊として総勢百名を率いて登攀、山頂にて「君が代」吹奏・聖寿万歳奉唱を奉行されました。いつか私も登頂したいという思いを抱いておりましたが、中々機会に恵まれませんでした。しかし、町内で富士登山の企画が今年初めに持ち上がりました。これは良い機会と思い私も参加を申込みいたしました。
富士登山は人気があるのか、当初大変多くの方の申込みがありました。しかし、今年は富士山山開きから相次ぐ遭難の報道があり、多数の方がキャンセルされ、当日の参加者は、私を含めて八人だけでした。とは言え私も本格的な登山は経験がなく、北海道の雌阿寒岳のお題目碑の調査で登った以外は、毎年の身延山登詣くらいで、どちらも標高二千メートルにも満たない山です。ニュースで遭難の報道を耳にする度に不安を大きくしていましたが、恩師田中智学先生が六十二歳で、なおかつ現代のように交通機関も登山道も整備されていない中で富士山を登頂されたことに、一回り以上も年少である自分が辞退するなど、恩師田中智学先生に顔向けできないと鼓舞して挑みました。
恩師田中智学先生のお姿にはいつも驚かされておりますが、この富士登山もその一つです。『師子王談叢篇(八)』に収録された「富士山に登る」によると、まず鶯谷の国柱会館から隊列を組んで徒歩で東京駅に向い、同駅から列車で御殿場へ、同地で一泊し、そこから富士山頂を目指されました。私の富士登頂はと申しますと、皆様もご存じとは思いますが、富士吉田五合目まで高速バスで移動して、そこからのスタートです。恩師の富士登山と比べると比較にならない程簡単な登山です。
特にこれといったトレーニングをしたわけでもございませんが、ガイドさんの言いつけを守り山頂をめざしました。少しテンポが遅いと感じる位の速度で歩を進める中、多くの方々に先を越されてしまいました。もう少しペースを上げてもいいのではないかと思っていた矢先、私達を抜かしていったペースのはやいグループの多くが、高山病と思える症状でダウンしているところにその後出くわしました。
山小屋がある本八合目を目指して進む事六時間、日が沈む前に到着いたしました。丁度、影富士と言われる富士山の影が雲海に綺麗に姿を現し、初めて目にする影富士に一同感動しました。国柱会の身延登詣団において、三徳偈をお唱えしながら身延山を登るのは、この富士登山宣伝隊が始まりの様です。恩師田中智学先生もこの登山道を、三徳偈を唱えながら登ったのかと思いを巡らしながら、影富士に向かいお題目を三唱いたしました。本部にわずかに残る、大正十二年当時の富士登山宣伝隊写真を地元のガイドさんに見せたところ、貴重な写真である事と、当時の姿が現代の登山では考えられない程の軽装で、とても驚いていました。
私達が登った日は、素晴らしい天候に恵まれました。しかし地上との気温差は三十度以上で、八合目の気温は四度くらいでした。風が吹けば直ぐに氷点下になると、山の環境の変化の早さをガイドさんが語っていました。山小屋で夕飯をとり八時に消灯しましたが、寝袋に入って雑魚寝で何人位いたのかは定かで無いですが、所々で高山病にかかったのか嘔吐している人たちがいました。睡眠をとると呼吸が浅くなりそこで高山病にかかる人がいると、ガイドさんが言っていたことを思い出し、なかなか睡眠もとれず翌一時を迎えました。二時半に山小屋を出発して二時間で山頂に到着し、ご来光を待ちました。ご来光は四時四十五分でした。とても感動的でした。ふと横を見ると仲間の一人が涙をながしていました。その姿を見て、私もなぜか涙が湧き出てきました。その後ご来光へお題目三唱し、下山をいたしました。 皆で一緒に富士山を登った事により、今まで以上に絆が強くなった事を感じました。
正直登山には興味がなかったので、今回の富士登山を終えれば、あとは一年に一回の身延登詣で十分と考えておりましたが、今回の経験で色々な事を学びました。家族で登る事もより一層絆な強くなるだろうし良い事かなと思い、丁度反抗期の子供がいる友達にも勧めました。
国柱会霊廟賽主 田中壮谷