悦可衆心

2024年10月06日(日曜日)

 私達は日頃『妙行正軌』に従って御修行していますが、私は、いつも「妙法蓮華経方便品第二」の中の「悦可衆心」といった言葉を唱える時に、他者に対する慈悲の大切さを感じています。この言葉は、多くの人達を悦ばせること、そして多くの人が悦ぶのを認めて自分も悦ぶといった意味ではないかと勝手に解釈していますが、人の悦びを自身の悦びとして素直に受け取ることは、簡単そうに見えてなかなか難しいことだと思います。
 我々凡夫は、人が悦んでいる様子をみるとつい羨ましいなといった感情が生まれ、それが妬みへと発展しがちです。仏教では、克服しなければならない最も重要な三つの煩悩として、「貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろか)」といった三不善根を説いていますが、うっかりするとこれらの三毒につい振り回されます。幼い時、よく友達のおもちゃが良く見えて親にねだった経験は誰しもある事と思いますが、私もその例に漏れず、買ってもらうため必死で親を説得して困らせたものです。或る日の事です。そんなおもちゃ誰がもっているのと母に聞かれ、人を羨む自分の心を隠すためにもその子の名前が言えず、皆もっていると言って切り抜けました。しかし、私の友達を見れば、母から見ても一目瞭然です。母は玩具を買ってくれましたがそのことは何も言いませんでしたが、そのことで一層緊張が増しました。友達が持っているおもちゃに対し、羨望の炎が舞い上がったのが悲劇の始まりです。私としては、おもちゃそのものよりも友達が買ってもらったことが羨ましくて必死になり、その結果として親に嘘をつくという一番してはいけないことをしてしまいました。みんな持っていると言った虚偽の申し立てをして、姑息な手段で親の同情を引きつけ、やっと目的を達成した様に見えますが、実際に目標を達成したのは母だったかもしれません。何しろ、その時以来ずっと、私が『妙行正軌』に向かって御修行する度ごとに、他人には嘘をついてはいけないよといった教訓を垂れ続けているのですから。その様な母のお陰で現在の自分が有るとも言えます。
 法華経は誰にでも平等に開かれたお釈迦様の教えです。誰しもが仏性を持っていて誰でも悟りに至ることが出来ると説いています。今回は、法華経に書かれた一句「悦可衆心」といった言葉を紹介させていただきました。
 法華経は、他人の読誦を聴くだけでも、教えが皮膚から入ると言います。正中法座や供養会などでご参列された時には、耳を澄ませお聞きいただくか、余力あればご一緒に読経してみてください。きっと教えが身に入り込むと思います。

国柱会霊廟賽主 田中壮谷



真世界巻頭言


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