恩師田中智学先生のお言葉 令和5年8月号

2023年08月03日(木曜日)

 救ひの主は本佛の大慈を體したる本化の菩薩、それは塔中付囑(たつちうふぞく)の特別の法を以て、たった一粒でも萬病を一ぺんに治すといふ非常な効能のある藥を我等に授けられた(中略)受け持つところの修行は、どういふことをするかといふと、南無妙法蓮華經と唱へることだ、南無妙法蓮華經を行ずることだ、南無妙法蓮華經の仕事にいそしむことだ、それを受持(じゆぢ)といふ(中略)この受持の一行だけで成佛する(中略)讀誦(とくじゆ)も惡いといふことはない、それは助行(じよぎやう)だ、お題目の正行に對して助けをなす、これは我々行者の信力を横合ひから助ける、そこで助行といふ、正行とは違ふ、讀誦を助行とする、どのお經を讀んでも、法華經でさへあれば差支へない、然しながら、たんと讀んだから効能があるといふのではない、迹門(しやくもん)の代表として方便品、本門の代表として壽量品、それも一般在家では暇がないから略開三顯一の段だけを讀む、本門の中に於ては久遠偈、此の自我偈は壽量品の精髓(せいずゐ)を傳へたものだから、これを代表して讀む、(中略)正味としないで助行とする、その程度で可(い)い、肝心の修行は題目である、口に唱へ身に行じ心に念ずるといふ、これを身(しん)口(く)意(い)の三業(さんごふ)といふ、口に唱へるといふのは何でもないことだ、一ばん簡單で一ばん初門である、ところが之がなかなかやれない、どういふものか罪障(ざいしやう)深重(じんぢう)にして、容易にやれない、それがやれるやうになるには、大聖人の慈悲と化導とが心魂に徹底して、有りがたいといふ感謝が出て來なければ、本當の肺肝から出ない、肺肝から出れば一ぺんで可い(中略)
 だから口業(くごふ)は決して輕いやさしいものではない、けれども口ばかりでは可(い)けない、矢張り意に念じなければならぬ、意に念ずるといふのは大聖人の慈悲を念(おも)ひ、その慈悲より現はれた敎の尊いことを感謝し、それから授けられた此の法を世に弘めたい、斷やさんやうにしたい、擴張するやうにしたい、自分が此の喜びをもった通り、あらゆる者に同じ喜びを得せしめたい卽ちこゝに於いて宣傳弘通の心が起って來る(中略)
 此の無上の寶(たから)が目の前にありながら、寶の山に入って寶を得ることの出來ない現代は、如何にも不便(ふびん)であるといふところから慈悲心が起って、世を救はうといふ觀念が發生する、その慈悲の止むことなき發生、進歩によって、我等は是に極度の增上信を起して進んで行く心を起す、それが事業となって現はれる(中略)そこで先づ段階をたてれば、はじめは自分一人の謗法(はうぼふ)を脱(まぬ)がれる自分から先きにやって行かなければならぬ卽ち個人だ、個人が先づ其謗法をまぬがれて正法に入り得たらば、今度は親でも兄弟でも、妻子眷屬(けんぞく)一家一門の手近なところから導いて行く、それが約家(やくか)の謗法、卽ち家に約して謗法をまぬがれる、それからこれを廣く及ぼして、日本国家の全體をして謗法より脱出して、正法に歸せしめなければならぬといふ運動が起って來る(中略)終(つひ)に一國の謗法をも脱せしめて、國をして正法に歸せしめなければならぬ。
 その方法はどうあるかといふと先づこれを國民運動として、正義を知らしめる運動を起さなければならぬ、或は言論に或は文筆に或は藝術に或は政治に或は産業に、あらゆる方面に此の正法の緣を擴大して行って、國家をして謗法から離れしめなければならぬ、これが先づ御妙判に示された身の謗法、家の謗法、國の謗法と、此の三つを免(まぬ)がれない中は、自分の役目は濟まないと思へと斯ういふ、自分だけお題目を唱へて成佛する、他のものは勝手にしろとやってゐては、法華經にならない、自分を離れて家はないといふ、家を離れて國はないといふ、此の根本に於いて渾然として一つのものであるから、彼方がたてれば此方がたたずで、兎に角一緒にたたなければならぬから結局は國家と一緒に成佛しなければならぬと、斯(か)ういふことになる。
 だから我等の仕事の目的は國家に向って行かなければならぬ、此の約身、約家、約國の三つの三約離謗(さんやくりはう)を完うして、はじめて自分の修行といふものが成就する、これだけは自行なんだ、その自行を提(ひつさ)げて、今度は化他といって他を救ふ方に行く、それは何であるかといふと、今度は社會的に世の中を救って行かなければならぬ、それから今度は一般人類を救って行かなければならぬ、世界的に救って行かなければならぬ、即ち此の法華經の世界的進出である、人類社會の上にまで此の無上の寶を及ぼして行くといふのでなければ、法華經の趣意に相應しない。(中略)今一閻浮提は病に閉ぢられて居る。ヨーロッパは終に平和なき國なりといふ呻(うめ)きがある、國際聯盟(れんめい)も年中ゴタゴタしてゐる、世界戰爭の後始末で、今以てその戰債賠償がごたついている。棒引運動も起ったドイツは最早國内に内亂が起りかけてゐる、共産黨が勝つとか、ヒットラーが勝つとかいって騒いでゐる、日本はこれを向ふ河岸(がし)の火事にしてゐることは出來ない、遠い國のことだから關係はないといっても、世界は一つの身體(からだ)であってみれば、指の先に出來た腫物(できもの)でも、身體中の痛みだ、ナニこれは痛いけれども小指に出來たから、場末の火事だから放っておけといふことは出來ない。痛さは身體が負はなければならぬ、何故ならば一つの身體である以上、その苦しみも同じく受けなければならぬ、隨って樂しみもさうだ、だから一心同體、どうしても切り離すことは出來ないといふ觀念の上から、世界を救ふといふのが日本建國の、人類同善世界一家の大理想だ。その大理想に魂を打ち込むものが法華經だ、だから結局これが世界的になっていかなければならぬ。
 世界的になって其の先はどうである、それから先はわからんといふことはない、矢っ張りわかる、けれどもわかってみても、それは餘りに現實から離れてゐるから、理想だけに止めておく、けれどもそれは大きいからといっても驚くことはない、宇宙といっても心の中に入って居る。先づ社會に及ぼし、世界に及ぼし、宇宙に及ぼす、天地法界がみんな此の妙法蓮華經の光の中に入る、人間以外のものといへば冥界のもの、上では天部の神下では下界の餓鬼惡魔などもある、目に見えないものもある、今ここに出て來ないから無いやうに思ふが有る。あるだらう、百鬼夜行といって人間でも此の頃は鬼の樣になって居る、その幽冥界のものにまで及んで行く、或は現象界の木や草木にまで及んで、妙法の光に照らされる、一箇の石にも皆法華經の光が宿って行くやうにして天物を損はないで活かして行く、天地萬物をして各々その所(ところ)を得(え)せしめるといふのが成佛だ、其尊容(すがた)をあらはしたのが十界勸請輪圓具足の大曼荼羅だ、上は釋迦多寳から本化の菩薩、迹化の菩薩、聲聞から縁覺から、天部の神から人間から餓鬼から畜生までも、一切のものがみんなお題目の周圍に勸請してある、そしてそれが日本といふ國土の上に建設して、そして世界を統一する形になっている、それが御本尊だ、中央に南無妙法蓮華經と書いてさらにその下に 天照八幡と日本の代表を書いてさらにその下に日蓮といふ、これが中軸だその中軸が天地法界を捧持してゐる形だ、だから上佛界から下地獄界にいたるまで、すべての境界を接取して、悉くこれを妙法で活かしてしまふといふ(中略)卽ち妙法五字の光明に照らされるといふ、それが三大秘法の中の御本尊だ。

(「本化の信」『師子王』第二輯敎義篇(續)より)



真世界巻頭言


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