大橋冨士子講師、今生最後の言葉

2011年02月03日(木曜日)

 「はい、わかりました」。この言葉が、私が冨士子先生から最後に耳にしたことばとなりました。それは、昨年12月15日に熊本にお見舞いに伺った時のことでした。この言葉に接すると、幼い頃幾度となく冨士子先生から、「はい、わかりました、でしょう」としつけられてきたことを思い出します。聞き分けの良い子供ではなかった私に対し、二言目には、「勇一郎、わかりましたか?」と念をおされ、「だったら、はいわかりました、でしょう」と教えられてきました。冨士子先生の今生最後の言葉は、立場が逆転した形での「はい、わかりました」でした。それは、私が帰京しなくてはいけない時間となり、冨士子先生に、頑張って少しでも元気になって下さい、そしてなんとしても新年を迎えましょう、と耳元で、大きな声で申しあげたとき、全身全霊でその呼びかけ応えて下さったときのお言葉です。これは日常的に耳にするありふれた言葉ですが、私にとっては、とても意味深い言葉となりました。
 冨士子先生は、大正八年九月一日に、霊峰富士を望む本化の道場三保の最勝閣にて、夏期講習が終わった猛暑の後に生をうけられました。富士は、時として不二と表現されますが、とても意味深い名前であると思います。このことは、私以上に、故人冨士子先生ご自身が感じておられたことと拝察致します。先生は、恩師の心をしっかりと心に奉じた生涯を全うされました。唯一絶対の教えである法華経の行者として、不二の教え、法華経の広宣流布に捧げられた一生でした。法華経を様々な見地から学び、またその他の宗教に関しても深い見識をもたれ、そのうえでもやはり、法華経が最勝であるとの固い信を懐いておられました。この最勝の教え『妙法蓮華経』に帰依するのが「南無妙法蓮華経」なのだよ、そして、全ては法の因縁の赴く所に従っていれば何の心配もいらないのだ、といつも言っておられました。まだ若輩の身である私の事が気がかりであった事を除いては、思い残す事は少しもない素晴らしい人生であったと思われます。私は、精一杯の強がりを示して病室を後にしました。ほんの少しですが、先生に安心を与える事が出来たのではないかと思っています。冨士子先生の御最後に私が導師を務めて正葬儀を執行出来た事が何よりもの御恩返しとなりました。きっと喜んで下さった事と思います。
先生を偲びながら、御著書『私たちの法華経』のなかで書かれた一節を掲載させて頂きます。
『めいめいの持っている業の因縁果報は、自分の力でどうすることもできません。地獄の心を自分でなくすこともできず、仏の心を自分で掘り出すこともできない、けれでも、本仏の世界に南無したら、たとえ地獄の心があっても、本仏のさとりの中の地獄となり、功徳に活かされ、世の中を利益するはたらきと転ずることでしょう。仏のお力に一切まかせるとき、苦楽のすべてにとらわれがなくなって、大安心の境地に到達いたします。これが私たちの成仏なのです。』
冨士子先生。『はい、わかりました。』今後、目先の効用に一喜一憂せず、仏のお力にお任せして、法華経広宣流布に精進していきたいと思います。これからも我々にお力をおかしいただき、導き護っていただきたくお願い致します。
最後に、蓮岳院謙嵩日映大姉の御菩提増進を至心祈念いたします。

国柱会賽主 田中壮谷




真世界巻頭言


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