真世界提言

ここでは、機関誌『真世界』等に掲載された、国柱会教職の寄稿を中心に紹介させていただきます。

コロナ禍に思う  国柱会講師:坂井道夫◇

 令和元年12月、中国武漢を発祥の地として新型コロナウイルスが発生し、2年になると潜在したウイルスは世界を席巻し始めました。起因はいろいろ取り沙汰されていますが、5月3日現在で、日本では感染者1万4877人、死亡者517人、回復者4211人。東京都4331人、死亡者19人、回復者59人、世界での罹災者142万1834人、死亡者24万3529人、回復者109万2715人を数えています。未だ止まる気配は見せていません。数字は時と共に増減があることは当然です。
 自然災害を含めて、こうした災害が起こると、ハード面の追及が始まるのが常です。科学思想、経済分析が起るのが今日科学思想全盛時の当然の成り行きです。何処からなぜ起こったか、先ず追及されます。自然災害は天然自然に属することが多いですが、その原因をわたし達の異常な経済活動に求めることが多くなりました。近年その最たるものが二酸化炭素の排出に拠る大気のー地球環境―の汚染です。津波、突風、竜巻、大雨、河川の氾濫、等々科学の目が入り検証がなされています。信頼し得るものとして、地殻の変動は兎も角として、人為的な起因―二酸化炭素・ヒートアイランド現象などが指摘されています。その真実性を論議する資格は私にはありませんが、コロナ禍が憂慮されるに及んで、「生命とは何か」とか「動的(どうてき)平衡(へいこう)」とかいう言葉が生物科学者の方から出てまいりました。「私たちも宇宙の一部」という語に遭遇してふと我に返りました。「わたし達も地球の一部」という言葉は仏教では既成の、というよりは仏教教学当然の発想です。
 釈尊は「わたし達も宇宙の一部」即ち宇宙の真理(諸法実相=すべてのものは宇宙の真実の姿)であると覚られて「さとり」を開かれたと言われています。その実例が「五大」を覚って悟りを開かれたと言われていることです。「五大」とは勿論「地(ち)・水(すい)・火(か)・風(ふう)・空(くう)」のことです。地とはわたし達の身体のことで、水とは血液、火はエネルギー・熱、風は空気、それらが空の中に泰然と存在する。というのがその根拠です。
 しかし、ご存知の「諸行(しょぎょう)無常(むじょう)」という言葉があります。すべては移ろい行くもので、昨日のわたしは今日のわたしではありません。今(現在)という存在は、昨日(過去)の存在でも、明日(未来)の存在でもありません。しかしそのどの存在も瞬間瞬間が、時々刻々と今に接していて、今といった瞬間が過去になります。今は無いも同様です。存在したと云えば、それは過去のわたしであり、存在すると云えばそれは未来のわたしになります。今は無いというより外はありません。
 科学者は表現の方法が違います。例えば、人間の細胞は絶えず作り替えられています。昨日の細胞は今日の細胞ではありません。肉体も、骨も、血液も、すべての細胞が日に日に、刻々と作り替えられていくことをわたし達は知っています。にも拘(かかわ)らず、わたし達は昨日と同じであるかのような顔をしています。(実際は歳をとっているのでしょうが)。此の事を新陳代謝(しんちんたいしゃ)と言っています。昨日と今日が違った人間ならば、昨日の人間は存在しないも同然です。存在しなくても存在していると感じている。それと同じです。
 代謝と一口に言っても、細胞の中でどういうことが起っているのでしょうか。創造と破壊が常に起こっている訳です。破壊されていくものがなければ一方的に作られていくものばかりではありません。諸行が無常であると同様、肉体も諸行無常と同様、同じ時間帯で、今存在するために平衡を保つときがある筈です。これが「動的平衡」と言われるもので、諸行無常で述べた、「今は無い」という時間軸のなかにあり、人が、細胞が「生きる」ことだと思います。
 仏教ではすべての存在は夢幻のようなもので、事実としては存在しない、と言われています。そういう世界は一旦出て、外から見ると良くわかると言われて、家を出たのが「出家」(僧)です。彼等は空の世界に言ったと言われました。そこで彼等だけ「僧伽(そうぎゃ)」という集団を作り、規律(戒律)を決めて仏道の修行をしました。しかしその「空」の集団も存在しない、出家前の世界(有(う))があっての空だと言われるようになり、有でも空でもない(非有(ひう)・非空(ひくう))、或いは有でもあり空でもある世界(亦(やく)有(う)・亦(やく)空(くう))中(ちゅう)を想定して、本当は空(くう)・仮(け)・中(ちゅう)の三つが円満に交じり合って(空(くう)・仮(け)・中(ちゅう)の三諦(さんたい)円融(えんゆう)する)姿が本当の姿であると言われるようになりました。仏教では存在をそのように捉えます。それは生物学者の云う「動的平衡」のプロトタイプでもあります。
 ちなみに、刻々と作り替えられていくことを自己増殖(じこぞうしょく)というならば、ウイルスは自己増殖はしないと言われています。その代り、他の細胞内に入り込み、その力で増殖するといいます。そして長い目で見れば、その細胞を進化させ、他のウイルスの防波堤にもなると言われています。そもそもはウイルスはわたし達の遺伝子の一部がわたし達から飛び出したもので、いわば里帰りのようなものだとも言われますが、何故宿主とも呼べる元の細胞がそんなことをするのか。他のウイルスの防波堤になることを承知で、危険を冒しながらも、里帰りのウイルスを歓迎しているとも考えられるということです。ウイルスが絶滅するとは考えられません。末永くお付き合いするというのが本当かもしれません。人類の七、八割が免疫(めんえき)を得れば風邪程度で済むというのが専門家の見解です。
わたし達が云う「妙」を発揮しているのです。宇宙万物が持っている妙を表わしていると言ってもいいかもしれません。
 しかし、当面危険極まりない新型コロナウイルスの為に地球上全世界が右往左往し、方策に悩んでいることは事実です。
 世界が等しく打ち出した政策は、経済活動の縮小です。西洋発祥の科学的思想の浸透は目に余るものがあります。人は楽を求めて彷徨(さまよ)います。娑婆(しゃば)世界(せかい)というのは忍苦の世界と訳されていますが、人は楽のみを求めます。戦後、いみじくも、アーノルド・ジョセフ・トインビー(1889―1975)が「近代化とは西洋化にほかならない」と喝破した言葉は耳朶(じだ)に残っていますが、おなじく「キリスト、釈尊、老子はそれぞれ自己の主張は譲らなかったが、声をそろえて言ったことは、物質的な富の追及はまちがった目的である」と言っていると、彼は云います。富とは現代では楽と直結しています。
 わたし達は「物質的な富の追求」に走り過ぎているのではないでしょうか。
 科学への信仰は、現代知識人の特徴であり、西洋文明は結果的には技術と結託して快楽を生んでいきました。現代はその文明に酔いしれていると云っていいかもしれません。
 そんな中でのコロナ禍です。経済の縮小は奇跡的に燎原(りょうげん)の火を食い止めようとしています。政府の緊急事態宣言に右往左往し、その本質を理解していません。外出の自粛、三密の制限、マスクの着用等とぐらいに考えています。そして宣言の解除に悦び元の生活に返ることを夢見ています。病膏肓(やまいこうこう)としか言いようはありません。政府をはじめ多くの人が、一時避難の時であり、時が過ぎればもとの生活が待っている、と考えているようですが、このウイルスの蔓延を食い止めたのは一に経済活動の縮小でした。
 ドイツの哲学者・詩人マルティン・ハイデッガー(1889ー1976)はその「弁明」の中で「人類は技術の時代に、いかにしてどのような政治体制と対応させうるかという決定的な問題を解き得ずに、滅びるであろう。」と言っていますが、問われているのはそこです。いかなる政治体制がこの時代に対応できか。
 結論から先に言いますと、経済を縮小すべきだと思います。今度のコロナ禍にドイツ国民が一番満足したのは経済保障の大きかったことだと云う事です。日本も国家予算の一年分を上回る百何十兆という補正予算を組んで保証しました。それでも充分という声は聞こえませんでした。それどころか飽くところのない保証が求められています。人々の驕(おご)りとしか見えない貪欲さに政治がどこまで対応できるか。政治が労働に対する評価をどこまで見直して、企業の組織を再編していくか、労働者側の労働に対する認識をどう変えていくか。コロナウイルスは、テレワークを初めとして労働に関して篩(ふるい)をかけました。職種にもよるでしょうが、要と不要の篩(ふる)い分けを余儀なくしました。
 それは、労働や、労働界ばかりの話ではありません。文化文明の話でもあります。
 矛盾律に頼って発達してきた西洋文明は東洋のレンマの思想も考慮に入れながら発達していかなければならない時期が到来したと思います。レンマの思想とは非矛盾律、AはAであってAではない、これは二であって二ではない(二而不二)、邪正一如、一即多、東洋には矛盾を厭わない様々な表現があります。また、これかあれか、ではなくこれでもありあれでもある、という表現、あれかこれか決める時どちらでもいいという表現もあります。これがレンマの思想です。ロゴスが砂漠の思想なら、レンマは森林の思想と言われています。もう五十年も前、わたしは「群と個の間」という評論を書いた事がありますが、図らずも今、コロナの記事を見ていて、「コロナウイルスは代謝も呼吸も自己破壊もしないとすると生物ではない、かといって無生物でもない」という文に遭遇して、この曖昧さに旧論を思い出し、レンマを髣髴としました。レンマとは所謂ロゴスによって割り切ることのできない感性であると云ったがいいかもしれません。
 兎も角も、西洋に起源をもつ、科学や合理思想は既に閉塞状態にあると云えます。金科玉条のように守ってきた西洋的民主主義も崩壊寸前です。アメリカにしてもヨーロッパにしても富貴快楽の夢を見るばかりです。
 わたし達にとってはもっと大切なものがあることに気づかなくてはなりません。
                              (転載元『妙梳』令和2年7月号 九州地方連合局発行)

新型コロナウイルス感染により明らかになった事と日本および私たちの役割について 
                                                 国柱会講師:吉岡慶史◇

 新型コロナウイルスの世界的感染拡大で、明らかになった事があります。
 日本での「マスク」「医療用感染防護服」等の極端な不足は、製造・供給元はほとんどが中国で生産された輸入品に頼っていたこと。それと感染は人体を媒体として、人からひとへの「横」の感染で、ほほ同時多発的に全世界に拡大していったことです。
 まず、「マスク不足」は、資本主義的観点から、各国で割安に生産できる製品を製造し、お互いに輸出入し合うことで、製造コスト削減を目的とする「相互依存体制」を基本に、各国の生産政策が進められ、「全世界的国際分業」が過度に拡大していた事でした。
 例えば、日本の得意とする自動車生産は、諸外国で製造し、輸入している部品がストップし、一時的に国内の生産工程に影響(製造中止)を受けました。マスク不足は、軽作業で素材・人件費が安く製品コストが低下な中国製品の輸入(ほぼ100%に近い)に頼っていたことです。
 コロナウイルス感染は、次々に各国へと、ほぼ同時多発的に拡大し、この過度な相互依存の国際的分業体制は、反って世界各国の経済活動のネックとなったことです。(生産・経済活動中止等)
 そして、「人間社会(生活)の仕組み(システム)」においても世界的に明白になったことがあります。
 それは、感染防止対策(例えば、都市封鎖や給付金等対策)および医療体制において、世界(特に米国)に蔓延る「人種差別」問題と「貧困・格差拡大」問題が浮き彫りになった事です。
 経済を中心とした「過度な生存競争」と「国家権力と(個人の)人権」が絡んだ問題です。個人・民族・人種・社会・国の間での経済(欲)的生存競争による格差(貧困と差別)問題です。自分だけ良ければ、自分の民族・人種だけ良ければ、自分の地域・社会だけ良ければ、自国だけ良ければ、という「競争と対立」の構造です。つい最近(今でも)まで、〇〇ファースト、××ファーストの政策を掲げていた大統領、知事等がもてはやされていました。(イギリスEU離脱もありました。)
 日本でも同じく、「緊急事態(自粛要請)と給付・助成(金)申請」問題、「給付・申請事務システム(給付の遅さ)」問題、「学校」問題、「SNS上での誹謗中傷」問題等が発生しました。
 一方(日本だけでなく各国でも)、あらゆる分野に妙法が活きていることも闡明になりました。高い感染リスクの中で、医療現場の最前線スッタフ(医師・看護師)やゴミ収集の皆様の奮闘はもとより、検査・関係行政機関、関係専門家、宅配・スーパーの皆様、罰則のない中で自粛(三密防止)を行った国民、それぞれ国民すべてに、根本に個々の使命・役割を果たすべく、妙法(私たちを包み込む)が行き亘っているという事です。
 今後は、第二波、第三波が予測され、さらに医療・検査体制・経済支援の充実が図られています。人類の英知結集によるワクチンの開発、各種薬品開発と医療対応も進み、間もなく収束すると信じます。
 感染を収束させ、経済活動回復させるには、人種・民族・国を超えた何らかの方法で統一するという「宇宙の摂理(人類の倫理)」が必要です。
法師功徳品の中に「諸々の所説(科学・医学・哲学・文学など)の法、其の義趣に随って、皆実相と相違背せじ。若しは世俗の教書(道徳・倫理)・辞世の語言(政治・法律)・資生の業(実業・経済)等を説かんも、皆正法(法華経の正意)に順ぜん(随う)」と仏は説いておられます。その縮図が大曼荼羅の御本尊であります。
 まさに、この事です。ここに日本の役割と本化妙宗国柱会(会員)の使命があるのです。
【日本と私たち国柱会会員との役割について】
 今回の新型コロナウイルス感染拡大を因・縁として、人種・国民および国際社会の分断を生じました。さらに、感染終息のための医学的・科学的なワクチンや薬の開発競争および終息後の経済復興競争は、絶対的平和国際社会の誕生ではなく、かえって新たな分断世界を生み出す結果にしかなりません。経済的力を背景とした国家間の「競争と対立」です。一時的な「力のバランス」によっての表面的な平和的世界になるかも知れません。しかし、何かの要因でこのバランスが崩れれば、また同じ事となります。繰り返しです。
そこで、何を以て今回のコロナウイルス感染「収束」を図り、どのような「真世界」を創っていくかです。これが(重要な)問題なのです。
 それは、本来の姿である「宇宙の摂理に宇宙に存在する一切が同化しよう(事の一念三千と諸法の実相)」とする本佛・本法・本化の仏教(宇宙の摂理で包み込む)よって解決するほかないのです。
もともとこの新型コロナウイルスも私たちと同じくこの宇宙法界のなかに存在して(諸法実相)いるのです。終息でなく、収束なのです。
 諸法実相とは、本佛の実相があらゆる(一切の)存在の中に現象として顕われていることで、これが宇宙の本体なのです。本佛の一念(一瞬、一瞬)があらゆる宇宙の存在に行き亘っており、あらゆる存在の一念も本佛の一念に通い亘っているのです。(事の一念三千)妙法五字・七字のなかに全てが収まっているのです。お曼荼羅の形藐なのです。
 人間界(六識)の業欲によって、ウイルスが人間の体内に侵入し、培養・感染して拡大しているのです。人からひとへと横に全世界的に感染拡大し、人命を奪うのみならず、人類社会の仕組みまで破壊しているのです。機・時に応じた感染と結果(報)なのです。このウイルスも妙法五字七字の法体の中に収(束)める事が必要なのです。
 私たちを含め、存在しているすべてのものは、それぞれ外見は違いますが、誰でも(すべての存在)が内面には佛性(平等)があります。外見は違っているのが当たり前です。しかし内面には平等(仏性を持っている)なのです。外面の差別(相違)に内面の平等(佛性)があり、内面の平等(佛性)に、外面の差別(相違)があるのです。しかし、内面の平等(佛性)はそのままでは開発外面に(佛)功徳となっては顕われないのです。元品の無明を打破し、元品の佛性を開発(発揮)する(本佛縁起の)修行が必要なのです。これが本化の修行方法なのです。内面の佛性(種)の開発修行は、妙法五字・七字(要法)なのです。(佛乗種)
妙法五字・七字に照らされて、始めてそれぞれ分々(外面の違い・差別を活かし)の本来の生まれ出された役目・使命が現実の社会で発揮できるのです。私たちも、それぞれの立つ位置で回りを光で照らすことが出来るのです。
 このように、お曼荼羅(本佛の本体)の中央の南無妙法蓮華経の光明に照らされた中に、私たち衆生を含め、三千世界のあらゆるものが存在しており、分々の光を放ち、また照らし合っているのです。
これが本佛から本化上行菩薩(日蓮聖人)に直伝され、日蓮聖人から私たち地涌の菩薩(本化妙宗会員)に授けられた南無妙法蓮華経なのです。日蓮聖人(上行菩薩の霊格)は、その内容をお曼荼羅として末法の私たち衆生(救済)のために、お顕わしになったのです。お曼荼羅は本佛の本体(姿)であり、お悟りであり、教えであり、修行法であり、末法時代の法界の成仏(当然、私たち衆生の成仏)の姿なのです。私たちの成仏の姿は、本佛の功徳の中に、全てが活かされ、共に活かし合っているお曼荼羅(佛国土)の姿なのです。
久遠本佛は寿量品で「つねに自らこの念をなす、何を以ってか衆生をして、無上道に入り、速やかに仏心を成就することを得せしめんと」と法身(真理)、報身(智慧)、応身(慈悲)を示し、久遠の説法を垂れておられます。教義的に言えば、真理を諸法実相といい、智慧は慧光照無量に、慈悲は毎自作是念であります。私たちは本佛(界)の真理(諸法実相)・智慧・慈悲の中に存在し、本佛も我等衆生(九界)に有られるのです。日蓮聖人のお顕らしになった佐渡始顕の大曼荼羅の形藐なのです。私たちはこの本佛の体内(お曼荼羅)に存するのです。
 久遠本佛は無始無終(永遠の命)で、この教えも永遠なのです。過去・現在・未来に通じているのです。
正しく、現在・未来に通じる教えなのです。普遍性の命であり、教えなのです。
本佛・本化・日蓮聖人・地涌の菩薩(私たちに)直伝されている内証の南無妙蓮華経の受持(修行)は、本佛釈尊・本化上行菩薩・日蓮聖人・恩師田中智学先生の誓願「通一仏土(佛国土・恒久平和)」の実現にあるのです。法界の成仏・世界の恒久平和「本門戒壇(お曼荼羅の姿)」の実現なのです。  
 私たちの本化妙宗は実現の宗教なのです。これが別頭行であり、国柱会会員の行です。
 本佛釈尊は本門の戒壇実現について神力品で、「如来の滅後において、仏の所説の教の、因縁および次第を知って、義に従って実の如く説かん。日月の光明の、よくもろもろの幽冥を除くがごとく、この人世間に行じて、よく衆生の闇を滅し、無量の菩薩をして、畢竟して一乗に住せしめん。このゆえに智あらん者、この功徳の利を聞いて、わが滅度の後において、この教を受持すべし。この人仏道において、決定して疑いあることなけん。」と説いておられます。本化行を行いましょう。通一仏土・本門の戒壇を建てる事業を行いましょう。
新型コロナウイルス感染拡大の時・機に当って、私たち本化妙宗国柱会の会員として、自分の命、私たちの役目・使命を見つめ直し、今こそ、本化妙宗会員としての信行活動の目的(通一仏土の実現・この世に本門の戒壇実現)を固めたいとおもいます。今、正にその時機なのです。
                              (転載元『妙梳』令和2年7月号 九州地方連合局発行)

謗法 国柱会講師:坂井道夫◇

 先に「コロナ禍に思う」という一文を書いたが、已來半年、いくらかは下火になったかに思われるが、一向に収束の気配を見せないのがコロナ禍である。先の拙文で述べた通り今度のウイルスは起こるべくして起こったのであり、恒常的なものと考えた方がいいかもしれない。禍根は深いのである。
 ようやくコロナ禍が一旦は鎮静化を見せ始めたが、またぞろ第二波の台頭に話が及んでいる。第二波、第三波と考えるより恒常的と考えたがよい。とすると、収束後の対応に大きな違いが出てくるのである。
 そんな話がある中で、図らずも経済の停滞と国民の委縮ムードの中で「GO TO 〇〇〇〇」なるいかがわしい呼びかけが、役所の造語として呼びかけられている。官民呼応してその話に乗った感じである。折も折、首都圏のウイルスの感染者の動向に右往左往し、ここに来て、政府は東京都を外すとか外さないとか、悶着を呼んでいる。そもそも「GO TO 〇〇〇〇」とか誰の発想で誰が決めたのか、そんな発想のある所にコロナ後の世界の発展はあり得ない。それどころかコロナ禍が収束するのも覚束ない。
 事ある毎に(ここ何年か、婦人部大会がある毎に)私は、西洋の合理思想とその拠って立つ産業着技術との結託による科学思想の弊害について言及してきた。ただ人間にとっての利便性のみを追求し、人間を怠惰にし(労働の価値を等閑(なおざり)にし、ものの価値を不当に操作し)人間存在の価値を貶(おとし)めているのではないか、と、疑ってきたのである。
 かつて、日蓮聖人は文応元年七月十六日、最明寺入道時頼(ときより)に一書を献上し、国家諌(かん)暁(ぎょう)の書とせられた。『立正安国論』である。直接の動機は当時、正嘉正元の年、天災疫病しきりに動じて、三災七難正の災害が席巻する時、「正法を立てて国を安んずべし」と大論陣を張られたのである。
 日蓮聖人は『世皆正に背き、人悉く邪に帰す。故に善神国を捨てて去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり、鬼神来たり、災難並び起る。言はずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず。』と述べらている。そして多くを法(ほう)然(ねん)上人の『撰擇集』の謗法(ほうぼう)に帰しておられる。今や一国の問題ではなく世界的な問題であるという人があるかもしれない。
 現代の世情を見ると、時代こそ変わっているが、宗教を云々すれば頭を背け一笑に付す状態である。既に政教分離の時代である。宗教の出番はないといった風情である。何が原因なのか。これ程の謗法があろうかと、憤激する所である。謗法とはわが国の仏教界で多用されてきた言葉である。宗教的立脚点を謗(そし)り貶(おとし)めることを意味する。しかし宗教とはわたし達にとっては、生きることに外ならない。『あめつちの中に人あり、人はただ妙のみのりをまもるべくあり』(田中智学先生)であり、「わたし達は生活の中に宗教を持っているのではなく、宗教の中に生活を持っているのである。」(田中智学先生)即ち、わたし達は生きていることが宗教である。ところが、その宗教の根底を脅かしているのが合理思想であり、科学であり、科学教育の蔓延である。科学の根底ロゴスはもともと宗教であった。ロゴスとは一般的にキリスト教の思想で、キリストの言葉をロゴスと云うことがある。聖書の冒頭に「はじめに言葉ありき。」というあれである。そして伝統的に西洋の科学思想の根底にある思想でもある。
わたしは事ある毎に触れてきたところであるが、ここで改めてもう一度掲載してみる。
 平成十一年度の、九州大学入試の小論文の参考文として掲載されたものである。「科学的真理」について述べている。
「生徒たちの学ぶべき内容が客観的に体系化して存在しているのだとすると、次はどのようにしてその内容を吸収しやすくすればよいか、ということになってくる。「科学的真理」は客観的に体系化して存在するのだから、並べ方さえうまくやればみんな「わかる」はずだと考えるのだ。そしてみんなが真理に到達さえすれば、人類史が抱え込んできた宗教などの非合理的イデオロギーなどは消えてしまい、人権思想なども確立して、人間性への抑圧の歴史などは過去のものになる、ということになる。だから教育は絶対に必要なものであり、それも出来るだけ大勢の国民により高い教育を受けさせることがいいということになるのだ。 (「管理教育のすすめ」諏訪哲二より)」
 これが現今の教育の指針だとすると寒心に堪えない。勿論(もちろん)これは当局者の意図ではなく、こうした教育論をどう思うか、ということであろう。そのための参考文献である。と考える。
 しかし、戦後は間違いなくこうした教育がなされてきた。「民主主義と科学教育は必須の要件であり、たとえ校内暴力が起ろうとも「科学的真理」を教え込むことが教師の義務であり、生徒の権利であった。」筆者は「全く信じられないであろうが」と言っている。
 こうした「真理」を教え込むことが「人類史が抱え込んできた宗教などの非合理的イデオロギーなど」を消し去ることを含み持っているとしたなら、これ以上の謗法はないと思うのである。宗教と云えば人が顔をそむける根源は何であろうか。
 仏教では、確かに「二而(にに)不二(ふに)」(二であって二でない)、「邪(じゃ)正一如(しょういちにょ)」(邪も正も同じである)などというのは特別の事ではない。それらを非合理的というなら、そうかもしれないが、それ等が内包する深い思想を無視しているのである.1+⒈=2、正≠邪を約束したロゴスにとっては非合理に映るかもしれない。
 終戦時、昭和20年8月30日、占領軍として進駐してきたダグラス・マッカーサーが厚木の飛行場に降り立つ颯爽とした姿を記憶している方もおられると思う。輸送機のタラップを一、二段降りて立つ、マッカーサーの口にはコーンのパイプがあり、目には色眼鏡が光っていた。彼が初めて見た日本の風景は色のついた日本であったろうと思われる。わたし達はその色眼鏡で見た日本に作り替えられていった。
 日本国憲法の改変・財閥の解体・家族父長制度の改廃・農地改革・教育改革等々、挙げれば切りがない。
 未だに痛恨の思いがあるのは国語改革である。(現在でも、複雑で釈然としないものが沢山含まれているが)。漢字制限・現代仮名遣い。これは日本の文化を断絶させたのである。日本の古典への遡及(そきゅう)を困難にさせたのである。文化の破壊といってもいい。宗教改革が出来ないなら、文化を分断することである。(これらは必ずしもアメリカ仕込みではなく、日本の知識人の策謀(さくぼう)によるところもあるのである。)これらを正当とするなら東洋伝統の思想(レンマ)は不当かもしれない。かつて(第二次世界大戦後)東南アジア諸国が独立した時、イギリスの社会学者トインビーは、「近代化(西洋化)には成功したかもしれないが、東洋の伝統を失った。」と云ったという有名な話があるが、そのことにさえ気付いていないのである。
 第一に倫理情操の著しい低下である。倫理(りんり)と言えば聞こえはいいが、所謂(いわゆる)道徳を科学的論理でカバーしただけのものである。道徳と雖(いえど)も科学でカバーしなければ通用しない時代である。道徳は人が生きる道である。宗教であると言ってもいい。わたし達が生きている生の世界を一旦崩して見せたのが仏教である。わたし達が生きている社会は嘘であると。わたし達は齷齪(あくせく)と汗を流して日々を紡(つむ)いでいる。そうした世界が嘘の世界であり仮の世界であるとしたら、わたし達は何のために……と、絶望に陥ると思う。わたし達は戦後一度経験した。そしてわたし達は「何のために……」と問いかえした。「わたし達は何かの為に生きているのではない。高い山を登ったら、また麓に下り、下りたらまた登る、を繰り返しているだけだ。他に何の理由もない」そう言われた。不条理と言われた時代である。避暑地での一日、太陽があまりに眩しかったから人を殺した(アルベール・カミュ=『異邦人』)という小説がもてはやされた。又コロナ禍の流行を彷彿とさせる小説「ペスト」はブームを呼び近時の紙価を高からしめたという話もある。『ペスト』は中世ヨーロッパの人口の三割を死亡させたというペスト禍に取材したものである。西欧科学が毀して見せるのはそこまでである。かつてデカルト(1596~1650)が哲学の原点である自己を壊して見せた。疑って、疑って、残渣(ざんさ)として自己を疑い得ざるものとして残したのである。しかしそれすらもカントによって否定されるところとなったが。西洋はいくたの困難の後に自己喪失に陥り、自己を取り戻すことが出来なかった。仏教は当初から自己は持たなかった。(空(くう)からはじまったのである。空(くう)については稿を改めなければならない。)
 しかし、今わたし達は図らずも科学と哲学の中に迷い込んでしまった。科学とは物質の追及であり、哲学とは思想・精神の追求である。科学は真理を目指している。一方では、世界は民主主義を目指している。それらが人類の夢として語られつづけ、人はそれさえ守れれば幸せになり、幸せにならないのは真理の追究が足りないからであるという態度をとる。
 私はこうした現代の科学の指向を謗法というのである。
 先ほど述べたように現代の著しい倫理性の低下は科学の真理性に依拠している部分が多いのである。戦後の家族制度の崩壊は先祖・先人を敬うことを忘れさせ、世に秀でた神の存在を貶めた。(迷信しか残っていない)。「和を以て貴しとなす」とは、わたし達「本化妙宗」でいう「戒壇」=仏国土である。和を以て貴しとしないから争いばかりが起るのである。和とは単なる仲良し意識ではない。本来は正義に根差したものであるが、正義が存在しないのはある意味科学の力学による。(科学の前では他の倫理的行為は無力となる。)個人中心の思想がロゴスに拠っているからである。
 最近話題に上ることが多い、ロゴスとレンマの世界と云うのがある。再び云うと、ロゴスとは一般的に、そして伝統的に西洋の科学思想の根底にある思想でもある。Aは非Aではない、という厳然とした一語である。レンマとはÅは非Aでもあり、非Aでもない。或いはそのどちらでもない、という思想である。これを除いては、仏教は成り立たないと云うのがレンマの思想である。即ち縁起の思想である。と言ってもいい。仏教では善悪一如、一即多、二而不二(二であって二ではない)等の思想を受け入れられなければ成り立たない。これがあるからあれが成り立ち、あれがないならこれは成り立たない、等と云う。これがあるからあれがあり、これがなければあれはない、同じことである。相依(そうえ)の関係、縁起(えんぎ)という。例えば物は本質を持って存在しない。若しそうなら物は存在しないも同然である。それで空(くう)というのである。が本質を持たないで存在するものがあるから、空(くう)が存在するのであって、空(くう)だけでは存在し得ない。これが相依の関係、縁起というものである。本質を持たないで存在する世界を仮(け)と云い、仮(け)があるから空(くう)があるのである。同様の関係をレンマという。例えばAの道を行くべきかBの道を行くべきか迷った時、そのどちらでもよい、そのどちらにもしない方法もある。AかBどちらか一つを選択する方法がロゴスであり、前者がレンマである。良く日本人はどちらでもよいと云う人が多いという、それがレンマの思想である。と考えてよい。
 又一説には風土の違いによると言われている。砂漠に生まれたロゴスは何にもないところでまず水を求め、右へ行くか左へ行くかが命取りになる。レンマは森林の思想でどこに迷い込んでも何かある。生きるに困ることはない。これがロゴスとレンマの分かれ道であると言われている。
 自ずからわたし達の選択肢は決まる。わたし達は西洋の合理主義、科学一辺倒の世界からではなく、東洋の、別しては仏教の中から新しい道を探すべきである。それが、地球が救われる道であると信じる。
                                         (『真世界』令和3年11月号より転載)

梅が枝に誓いし令和滔々と久遠の時を昔日に継ぐ 国柱会講師:坂井道夫◇

 遠い日の物語が今に伝えてそこはかとなく心を揺さぶる。それが令和である。梅が枝の宮居の庭に蕾を持ちて三年、久遠の昔と未来を結んで今ここに時を刻むのが令和である。
諸法実相
 『方便品』に「諸法実相」について書いてある。というより、迹門の最も重要な法門である。わたし達が毎日拝読する所である。『佛所(ぶつしょ)成就(じょうじゅ)。第一(だいいち)希有(けう)。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 難解之法(なんげしほう)。唯佛與佛(ゆいぶつよぶつ).乃能究盡(ないのうくうじん)。諸法(しょほう)実相(じっそう)。所謂(しょい)諸法(しょほう)。如(にょ)是相(ぜそう)。…(・・・)…(・・・)』(仏の為されたところは、大変重要なことで、なかなか理解しがたいところである。ただ、仏と仏のみが究め尽くされたところであり、君たち声聞・縁覚・菩薩にはわからない。諸法はみな真実である。所謂、諸法というのは、この宇宙に存在するあらゆるもの、ということであり、実相とは十如是のことである。)諸法には必ず法則がありそれが十如是である。仏は君たちに言ってもどうせ分からないから、止そうと、三度まで仰る。わたし達が緊張する場面である。それを機に、増上慢の徒の五千人が立ち去ったりもする。日蓮聖人も『諸法実相鈔』を残されている。この実相の中には矛盾するもの、相反するものが当然含まれている。それ故の妙法である。
 ここで私が云いたいのは「諸法はみな真実である」ということである。わたし達は日々様々な存在に向き合って過ごす。その存在というのは全く手つかずの自然な存在である。何の解釈も、予備知識もない存在である。もっとはっきり云えば、わたし達が居ようが居まいが存在する実在・自然のことである。主観も客観もない、それ以前の主客合一の世界である。
 大正から明治にかけて一つの時代をなした斎藤茂吉というアララギの歌人がいた。彼の作歌法の一つに「実相に観入する」という言葉があった。もう七十年以上も前のことで、定かには覚えてないが、歌にして詠みたいという対象に出会った時は、その時の驚きを、我も対象もない、我と彼と一体となって言葉に変えていくことが大切である。実相とは手付かずの真実の事であり、観入とは相手に身を任せることである。そういう事ではなかったかと思う。今にして思えば、この「実相」という言葉は多分仏教思想からきているものと思う。     
BC五・六世紀ごろ、ギリシャのイオニア地方(今のトルコ南西部のギリシャとの間にエーゲ海を挟んだ沿岸地方)に哲学らしきものが萌芽し始めたと言われている。ここは古代ギリシャの植民地として栄えたところで、その中にヘラクレイトス(BC540~BC480)という人がいた。釈尊(BC566~BC486)とほとんど同世代の人である。彼は「万物は流転する」と云ったり、「相反する所に最も美しい調和がある」と云ったりした自然派の哲学者であり、主観客観が確然と分離する以前のことである。これに対するのが現代の科学のルーツともなった所謂ロゴスというものの立場である。主観・客観の捉え方で云うと客観の世界がロゴスということである。一般的には科学的立場と云ってもいい。ヘラクレイトスに続く哲学者がソクラテス、プラトンであるが、彼らはロゴスの立場に立った。以後二千年の間、二十世紀まで続いたのがロゴスの時代である。幾多の変遷はあったものの、この立場は所謂キリスト教文化圏の立場である。新約聖書冒頭の「初めにことばありき」というのはキリストその人、又はその神意を指すといわれているが、これがロゴスである。あるいは万事が矛盾律に随う立場である。一般に理性と呼ばれている。わたし達の思考構造もほぼこれに随っている。此の理性を学ぶためにわたし達は教育を受けてきたと云ってもいいほどである。此の思考法が強いのはみんなが検証でき、みんなが証明でき、みんなが納得できるところである。客観的とはそういうことである。逆にみんなが納得するものは客観的であり真実であると思い込む所にある。民主主義もこういう所に成立したものである。  
 わたしは昨年「真世界」誌の十一月号に「謗法」と題する主張をしたが、それは科学が客観的立場から仏教を非合理的として抹殺するような論調を「謗法」として論断したものである。科学が標榜する正義が真理としての地位に安んじて、横暴を極めることへの警告でもあった。勿論、科学が技術と結託して高度な製品を生産し、わたし達の生活にどれだけの貢献をして来たか知らないわけではない。それによって豊富な時間を生み出し、多くの労働の軽減を与えてきた。言葉では云い尽くせぬものがあろう。わたし達は多大の経済力と消費力とを持ち得たのである。しかし、結果してそれらが与えたものは何であったのか。度重なる災害と病難である。人間は唯怠惰になっただけなのか。姑息になっただけなのか。手を尽くして止まらぬ災害、病難ではない。                                                                                                                                                               
 わたしは、キリスト教文化を云々しているのではない。文化には様々な文化がある。単純な例をとると、今全盛を誇っているコンピューターは数学で云えば二進法の上に成り立っている。三進論も、四進論もあるのである。それらも一つの文化である。それぞれが、それぞれ得意な文化の上で活躍すれば済むことである。どんな文化でもある約束の上に成り立っている。
 二千年続いたロゴスもある客観の上に成り立ったもので、今では主観と言われている。わたし達が客観と信じ、真理と信じたものが、ある主観に過ぎないとしたら、ショックは大きい。わたし達は二千年来こうした文化に育てられてきたのである。わたし達はみんなそれを疑うものはないであろう。
 ロゴスの限界を見る思いである。客観的であるが故に、みんなが信じたものは、そうして信じたもの故に正しかったものは、今崩れようとしている。客観と信じてきたものは、実は主観に過ぎなかったのである。
 わたしは今、東洋、否、日本古来の文化そして仏教文化を護持していくべきだと思うものである。これについては、聖徳太子が神道、儒教、仏教を一本の木に譬えられた詔書もある。「邪正一如」「二而不二」等相反するもの、矛盾するものが一体となった生命、人間を考えていくべきではないかと思う。
 「謗法」でも示唆したが、レンマの思想等も再考しながら世界を構築していってもいいのではないかと思っている。いや、そうすべきであると信じている。

コロナ禍で日本から失われようとするものを危惧する 国柱会講師補:松本充子◇

 政府は、1月7日に、緊急事態の再宣言を一都三県(神奈川、埼玉、千葉)に出しました。前日の東京都の感染者だけでも2500人近くに上り、最多を更新しました。首相の「1ヶ月で改善へと全力努力する」との宣言でした。医療現場の逼迫状況と日本経済界の損失状況との兼ね合いを見て行く(この先も、COVID―19との共存生活を私たち国民に要請する)ということでしょうか。その状況の塩梅を見ての舵取りと思われます。政府の目先を見ての対応に、国民の一人として私は、この先どこを目標に希望をもったらよいか判断がつかなくなります。その上、国民に罰則を科すような規定をつくるとも議論されています。感染していると自覚ある者は、人々に「うつさない」という行動は当然必要です。それを破る者が多いのであれば、罰則規定はやむを得ないと思います。しかし、政府は、経済活動を重視してきました。緊急事態宣言をした際、それに準じた行動を国民が示せなかったといって、罰則規定を設けるのは、如何なものでしょうか。国にとって大変おおきなものが失われていくのではと危惧いたします。
 日本人の国家意識は、国家という名称からしても対立するものではなく、国という家、国を家と考えてきたという、長い歴史があるのではないかと思うのです。それは、欧米人の国家観とは何か違う、家族国家観であったのではないでしょうか。国と家族の両者を矛盾のないものとして連携できる関係とした見方は、日本人の生き方であり、特有の文化であると考えます。
 最初の緊急事態宣言で、政府行政からのお願いとして国民に呼びかけたことに対して、国民は良識でもってそれに応えて、連携できる関係がもてたのではないでしょうか。
 政府は、目先のことを見て舵取りをするのではなく、日本ならではの長い歴史のなかで積み上げてきた文化、価値観も視野に入れて、対応していただきたいと私は願うのです。   
昨年1月16日、国内で初の感染者が公表されました。同月、22日に、天皇陛下と皇后陛下は、国立障害者施設を慰問されました。それは上皇さま上皇后さまから引き継いだ障害者週間に合わせた御訪問でした。陛下は、得体の知れないこの感染症による障害者の方々の恐れをあたかも一掃されるように、あなた方を見放すことはないと内外に強いメッセージをお示しになられたと、私は国民の一人として深く感銘を受けました。天皇陛下は、国民への新年ビデオメッセージで、仕事や住まいを失うなど困窮し、あるいは、孤独に陥るなど、様々な理由により困難な状況に置かれている人々の身の上を、また医療従事者関係者への差別偏見についてお案じになり、その一方で困難な方に寄り添い、支えようと活動されている方々の御努力、献身に勇気付けられると、お述べになりました。そして、さいごに「人々が将来への確固たる希望を胸に、安心して暮らせる日が必ずや遠くない将来に来ることを信じ、皆が互いに思いやりを持って助け合い、支え合いながら、進んで行くことを心から願っています」とお述べになりました。
 日本は、10年前の東日本大震災では、多くの人々が被災者に寄り添い、被災者は復興に向けて多くの苦難に立ち向ってこられたことでしょう。首相は、このコロナ禍においても、国民を一人一人から共生感と団結力を引き出す方向へと導いて、この困難を国民とともに乗り越えることが出来るという、強い決意表明をしていただきたいと、私は切に願います。そして、メディア界の方々は、現在、住まいや食料に困っている方々に寄り添うNPO法人、市民ボランティアの方々など、たくさんの活動を紹介し、なんとかこの有事を乗り越えようというメッセ―ジとなるよう報道していただきたいと願います。今、このコロナ禍だからこそ業績のある企業もあるかと思います。もし、そのような企業の利益が、特に貧窮している方々へと循環していく社会が実現できるなら、どんなに素晴らしいでしょう。また、それが社会のなかで賞賛される雰囲気があるなら、私たちのよろこびが重なり合って行くでしょう。そして、さらにより良い道を探して行けるでしょう。政府は、何よりも私たち国民のこころを手放さずに、困難のなかにも希望を与えつづけてほしいと願います。
 このコロナ禍であるからこそ、慶びを積み、暉きを重ね、正しきを養うことを、社会全体が忘れてはならないと思うのです。



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