日韓友好のシンボル

佛教伝来謝恩碑の建立



百済の恩誼千載に忘るべからず 

わが国の文化の華ともいうべき仏教が、上代、他の文物とともに、当時の先進国百済をはじめ、新羅・高麗など朝鮮半島から受容したことは、歴史的な事実であります。「日本書紀」には、わが欽明朝の13年に、百済26代の聖明王(韓国では聖王という)が、仏教経巻等とわが朝廷にもたらされたのが、仏教の初伝ということになっています。

明治36年(1903)、田中智学先生は、当時の新しい世界の情勢から、日本のもっとも近い隣国である韓国との関係を重くみて、とくに日本はその上代において、同国から多くのものを学んだのみならず、仏教を初めて伝えてくれた大恩ある国であり、ことに「百済聖明王の恩誼は千載に忘れてはならない」とし、両国の国交は、政治・経済をこえて、精神的文化交流を基本として、日本はまず上代の仏教伝来の大恩にたいし、ふかく感謝の意を表することをもって、国交の基礎とすべきであると提唱し、その謝恩の表示として、百済の旧都〃扶余〃に仏教伝来謝恩碑を建て国の公誼と恩情とを発揮して、仏教交流を通じ真の両国親善の端を啓くべし、とひろく日本仏教界に唱導されました。


しかし不幸な戦争、日韓併合など激動の時が続き、建碑事業の機熟さず空しく時は流れました。昭和40年(1965)日韓両国の国交は回復し、両国は平等の立場で国交を結ぶ独立国となりました。

国柱会3代目の会長田中香浦先生は、“百済の恩誼千載に忘るべからず”の師訓に想いをよせ、謝恩碑が過去数十年、ついに陽の目を見なかったというのも、両国が平等の立場で国交を結ぶ、今日の日を待っていたのではなかったか…だがそれにしても、今日では、韓国側の理解と賛成なくしては不可能なことであります。

国交回復の翌年春、全日本仏教会は、招きをうけて仏教親善使節訪韓団を派遣、田中香浦会長は日本仏教界を代表する、親善使節団の副団長としてこれに参加しました。国交回復間もない複雑な雰囲気のなか、使節団一行は心よく迎えられ、予想をこえた歓迎に接しました。公式の歓迎の席で、田中会長は「仏教伝来謝恩碑」のことを誠意をもって披露したところ、列席の韓国仏教曹渓宗総務院長孫慶山師、李行願師はじめ仏教界要職の各位は、思いもかけない田中先生の提唱に、非常な関心をよせ、畏敬の念をもって賛意を表されました。そのほか、東国大学校総長の趙明基博士、学術院会長の李丙?博士ら韓国学術界の泰斗の方々も、謝恩碑の建立受入れを全面的に支持され、協力を惜しまないと激励の言葉に接したのであります。

かくて日韓友好のシンボル、「仏教伝来謝恩碑」を百済の古都扶余に、日本仏教徒の謝恩の誠心をこめて贈ろう、という事業が、田中香浦会長の主導によって具体化いたしました。事業を発起するに当たって田中先生は日本文化の精華は 仏教である それによって 人々の心は潤い 磨かれ 深められた 遺芳いまに香り 世界に冠絶する わが仏教はその昔 百済国の聖王が 海を超えて わが国にもたらした ああこの恩 永久に忘れることはできない 日韓の両国 歴史本縁の姿にかえり 手を携えて 共栄の道を歩もうとする今 仏教請来謝恩の志を 一億日本人の至誠をこめ かの百済国の古都扶余の 丘の上に 碑に託した千載に伝えんと楽う これ両国親善のシンボルたるに止まらず ひろく アジアの平和招来への道標となり やがて 来るべき真世界の黎明を告げる 明星となるにちがいない この事業は単に一宗教教団の国柱会のみで実行したのでは意味がない。日本仏教界の総意として全仏教徒の、謝恩の志をあつめてこそ、真の意義があるのであって、日本仏教界各宗派の理解と賛同をとりつけ、一方、政、財、学術各界の識者をはじめ、国民一般にもひろくよびかけて賛同をえ、かくて超宗派的に日本仏教界の総意のもと「仏教伝来謝恩事業会」が発足しました。

田中会長は、事業の発起者であり一切の責を負う実行委員長として、終始すべてにわたって主導し、国柱会会員も総力あげて事業を推進したのです。この事業は、日本でも韓国でも、宗旨信条をこえた、ひろく仏教倫理に発する共同の聖なる事業と考え、日本でも超宗派的にすすめていると同様、韓国においても、全韓仏教的な立場で受入れられることを期待して、韓国の伝統宗団である曹渓宗を中心に、韓国仏教徒はもとより国民一般にも、理解と友好親善の気運を高めるべく要請しました。これに呼応して韓国では仏教界、学界、言論界、政、財界などの代表多数があつまって「全日本仏教徒発願・仏教伝来謝恩碑建立・韓国協賛会」を発足せしめ、謝恩碑の建立受入れに全面的な協賛を寄せるに至りました。

かくして昭和41年に事業発起以来、さまざまな困難も不思議に乗りこえて、昭和47年(1972)5月10日大韓民国忠清南道扶余邑の一角に、日韓仏教徒の永久友好の象徴として、「仏教伝来謝恩碑」は建立されたのであります。主碑の背面には、日付に並んで「発願者 日本仏教徒 田中智学」の文字が刻まれています。また副碑は建碑の趣意を、日韓英3カ国語で次のように刻まれています。



日本の仏教は 日本国欽明朝(西暦552)に百済国聖明王により始めて伝来され 爾来発展を重ねて日本文化の精華となった 日本の仏教徒はその恩義を千載に忘れることが出来ない よってここに感謝の誠を現わすため 韓国仏教徒の御好意のもと 聖明王の旧都であるこの地に謝恩碑を建立し もって日韓両国民の永遠にわたる親善の証とし 延いて世界平和の象徴たらしめたいと念願するものである。

爾来、国柱会は謝恩碑建立の提唱者として、隔年に訪韓団を組織して扶余を訪問し、謝恩碑参拝とともに地元扶余邑民との密接な交流をふかめています。


ファイルイメージ

参考(仏教伝来謝恩事業要項)

佛教伝来謝恩碑建立40年記念国柱会訪韓団

平成24年5月29日から6月1日までの4日間、田中壮谷・国柱会賽主以下51名からなる訪韓団を結成しました。
 そして5月30日には、今回の韓国訪問の主目的である、古代朝鮮半島に栄えた百済王国の旧都扶餘(現 大韓民国忠清南道扶餘郡扶餘邑)、に建立された「佛教伝来謝恩碑」の前で、建立40年を記念する慶讃法要を執り行いました。
 法要当日は雷雨にもかかわらず、扶餘郡庁から李竜雨・扶餘郡守、秋貞鎬・文化観光課長他、扶餘郡庁職員と、李泓坡・大韓佛教観音宗総務院長が来賓としてご参列下さいました。
 団長挨拶、来賓祝詞の後、差定(献香・三礼・散華・自我偈・唱題・奏白・三礼)の通り法要は滞りなく行われ、大橋邦正・国柱会講師より「仏教伝来謝恩碑」建立の経緯についての臨場講話・記念撮影をもって終了し、参加者は扶餘市内観光を楽しみました。


建立40年を迎えた「佛教伝来謝恩碑」

建立40年を迎えた「佛教伝来謝恩碑」


田中壮谷団長の挨拶

田中壮谷団長の挨拶


御来賓李竜雨扶餘郡守の祝詞

御来賓李竜雨扶餘郡守の祝詞


佛教伝来謝恩碑建立40年慶讃法要の様子

佛教伝来謝恩碑建立40年慶讃法要の様子


市内観光(百済歴史再現団地)の様子

市内観光(百済歴史再現団地)の様子



国柱会について


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