真世界文化研究会

真世界文化研究会は、田中智学先生をルーツに持つ三つの団体、国柱会・立正教団(里見日本文化学研究所)・立憲養正会の共同による本化教学研究機関で、令和5年8月それぞれの代表者による田中智学先生門下の再結集を行うための企画会議「田中智学先生門下懇話会」を経て設立されました。
三団体に所属する世話人によって運営され、主な活動として年一回の機関誌「師子王」の発刊と、執筆陣による研究発表会「真世界文化研究会公開講演会」を実施しております。
詳細は真世界文化研究会のホームページをご覧下さい。

立憲養正会について

 大正4年1月、田中智学先生は『国柱新聞』に、「最後の決」と題して「世人は近き将来に於て、興起すべき国体宣揚の純正義政党あることを今より記憶し置くべき也、唯夫(ただそれ)「正」の一字也……」と記されました。要するに道徳でも宗教でも、その実際の発動は必ず王道政治に落着くべきものということであります。
 智学先生は大正10年4月、国柱会総裁を引退されましたが、二年後の12年2月11日、鶯谷国柱会館において、日蓮(国体)主義の政党『立憲養正会政道大綱』及び『宣言』を発表、同年11月3日、明治神宮の大御前に結党式を挙行されました。時世の急が、先生の政治進出を促したのであります。
 大正13年2月28日、先生は紙上に「予の政見」と共に「衆議院議員立候補宣言」を発表し、立候補地は、出生の因縁により東京日本橋区を第一候補地とし、全国各選挙区を第二候補地と定め、純然たる理想選挙を標榜して起たれました。4月15日、日本橋区本石町の泰文社で、第1回の政見発表演説会が開かれたが、先生は、その演説会の中でも毅然「私は選挙というものは、他と対抗して争うべきものではないと思う、又候補者の方から頼んで出るべきものでない、……選挙人の方から三拝九拝して一票を捧げるのでなければならぬ」と主張されました。第一回の政見発表を皮切りに、「同志結束令」による門下総動員の布陣で、言論宣伝は25日間連続42回の演説。文書宣伝は『天業民報』十五万部。政綱・宣言・警告箋は約一百余万。文筆と言論を双翼とする理想選挙運動の姿は実に日本に選挙の歴史あって以来、未曾有の一大壮観でありました。先生は運動終結に近づいた頃、有権者に対し、選挙場前に事務所・休憩所を設けずという挨拶状を出し、またその看板を、選挙当日には、選挙場附近に僅か三本出したのみで、斎戒沐浴して運動員と共に明治神宮に参拝されました。開票の結果は、高木益太郎二、五九二票、近藤達児一、三八三票、田中先生の得票は七九四票で次点。先生の立候補が、その運動の進展に伴い、資格制限下の選挙でいかに他候補者に一大脅威を感ぜしめ、選挙前夜に、戸別訪問、叩頭哀願、買収などに狂奔させたか、五月十日の『読売新聞』の記事がよくこれを証明しています。
 立憲養正会は元来、田中智学先生の二男田中沢二(絃渠)講師が、大正11年の6月頃から満州で同志を糾合し、「鞍山楽団」の名で創立の準備を進めていたのですが、智学先生自ら騒起するに及び、その運動の中に合流し、田中沢二講師は立憲養正会総理目代となられました。
 田中沢二講師は、昭和3年1月『日本改造の具体案』第一稿を先生に奉献し、2月の総選挙には、この具体案をひっさげて、東京府第一区から立候補、「天皇政治の確立」を謳って、徹底した理想選挙運動を行ないました。その夏、『養正時評』を創刊しました。昭和4年2月11日、田中沢二講師は、智学先生から付嘱をうけて会の統督を命ぜられ、3月、総裁に就任し、昭和21年を事業成就の年ときめて、これを唯一の目標に、議会進出による政権掌握を会員に命じました。
 昭和5年1月の総選挙には、東京府第一区より総裁、秋田県より総務金作之助が立候補。昭和7年1月には東京府第一区より総裁、長野県第四区より幹事坂西隆作が立候補。昭和12年4月の総選挙には、総裁(群馬一区)以下全国各地に16名立候補、開票の結果、総務田中耕(長野四区)1人当選。
 田中沢二総裁は就任以来、稀に見る大活動と統帥力とを発揮して、10年ならずして会員数百三十万という隆々たる会勢を築きましたが、常に攻府に対する忌憧なき批判は、甚しく歴代内閣の危惧するところとなり、近衛内閣東条内閣との正面衝突で、ついに昭和17年3月17日「結社不許可」という事になりました。しかし4月の総選挙には、全国より同志37名が立候補し、政府に対する第一次反撃を試みたが、官憲の極端な弾圧のため、総裁の抱いた日本改造の大業は、雄図空しく、ついに挫折しました。
 昭和20年8月、敗戦降伏の直後、総裁は再び会を統裁し、昭和21年3月の総選挙には、全国各地に同志45名を立候補せしめました。同年9月、総裁は占領下では何も出来ないので、同志に委嘱し、一たん引退して5年後を期した。昭和22年4月の総選挙には、同志7名立候補、斎藤晃(福島一区)当選、昭和23年1月の総選挙には5名立候補し浦口鉄男(北海道)が当選しました。
 昭和26年11月18日、全国同志の嘆願によって、総裁再就任式が行なわれ、翌27年4月28日、講和条約発効と同時にいちはやく「占領憲法破棄」を主張し、新日本建設の叫びをあげられました。同年10月1日の総選挙には、全国より5名立候補、健闘空しく敗れましたが、総裁は、残生を鼓舞して、昭和30年3月15日逝去まで、ただ不惜身命尊王護国の志をもって一貫しました。
 田中沢二総裁の残後、立憲養正会の同志は、創立者の遺業を継承し、初代菊地清太郎会長を経て、現在は、少数なる国体主義政治団体として、名誉の孤立という状態で世界の民主々義的風潮と対決しております。(『国柱会百年史』より)
日本国体学会(里見日本文化学研究所)について

 大正11年5月、田中智学先生の三男里見岸雄(罟川)講師は、横浜を出帆、滞欧26カ月の外遊を終えて、大正13年9月帰国。同年12月、西宮の六湛寺に、智学先生自筆の「里見日本文化研究所」という看板を掲げ、翌14年4月28日、開所式を挙行されました。そのさいの宣言には「この研究所の事業たるや日蓮学並に目本国体の学術的研究を中心とするものであるが、更に是等の成果を携げて政治に実業に社会に文芸に其他人生万般に通ずる具体的実際運動を興す日も亦遠くないことを確信する」とあります。翌15年2月には月刊『日本文化』を創刊。
 昭和2年、西宮市宮西町に研究所を新築、「里見日本文化学研究所」と改称しました。同年12月、初めて「国体科学」の名を提唱し、翌3年1月には「国体科学連盟」を結成、全国に支部組織を展開しました。昭和4年1月『日本文化』を『国体科学』と改題し、国体科学叢書刊行のため、京都神楽岡に株式会社「国体科学社」を設立、10月『国体科学概論』を公刊し、国体科学叢書12巻を完結しました。
 昭和3年『国体に対する疑惑』出版以来、あいつぐ戦闘的著述は読書界に旋風を捲き起し、昭和6年1月、『天皇とプロレタリア』は百版を突破、当時のベストセラーとなりました。3月より旬刊『社会新聞』を併刊。4月『日蓮は甦る』を改題して『吼えろ日蓮』を出版、思想界に大きな衝撃を与えましたが、10月、国体科学連盟は事情により解散。同月15日には、船口万寿・石井秀雄・岡本清一等助手陣の主力は研究所を去り、東京で「経済国策研究会」を組織し、社会改造のための上奏請願運動を展開しました。
 昭和7年2月、機関誌『社会と国体』刊行。3月、京都吉田山麓に研究所を新設、6月「国体主義同盟」を結成。7月には『天皇の科学的研究』が公刊の運びとなりました。昭和10年2月、明治会の『日本国体新講座』刊行に際し、里見所長は、毎号『帝国憲法のたれにもわかる講義』を12回連続寄稿した。
 昭和11年2月、里見所長は国体主義同盟を改組し、ここに「日本国体学会」を創立しました。その年の5月、機関誌を『国体学雑誌』と改題し、更に11月、京都より東京武蔵野に移転しました。
 昭和12年4月3日、神田駿河台の明治大学講堂において、「日本国体学術大講演会」が、明治会後援で開催されました。演題は、第1席文学博士山川智応「国体を対象としての学」、第2席日本国体学会総裁里見岸雄「建国の体と帝国憲法」、第3席田中智学先生「国体学創唱の大綱」で、聴衆千三百余名。この時の智学先生の講演は、日本国体学に関する最後の公開講演となりました。
 里見所長は、昭和13年『国体法の研究』を著し、国体憲法学を学問的に大成しました。その後、この大作を立命館大学に提出して法学博士の学位取得。昭和17年4月、日本の学府に最初の立命館大学国体科が生まれ、里見博士が講座を担当しました。里見所長はさらに志を立て、昭和18年より23年に至る5ヶ年を費して『日本国体学』全13巻三万五千枚を脱稿しました。
 戦後昭和22年3月、月刊『国体戦線』を発刊、26年『国体文化』と改題、今日に至る。同33年「大日本国憲法案」を発表。同三十五年、里見所長は主著3部作として、第1部『日蓮・その人と思想』第2部『万世一系の天皇』第3部『日本国の憲法』の3部を錦正社から続いて出版しました。同37年10月28日、日本国体学会と錦正社の共催で、主著3部作の完成と智学先生の長女田中望子女史の著『みささぎ』出版と、次女大窪梅子女史が『万葉植物の綜合的研究』で文学博士の学位を得た三つの喜びの併祝の会が上野精養軒で開かれました。
 里見博士は、昭和49年4月18日、78歳を以て寂。その護国の志業は遺弟らが継承して今日に至っています。(『国柱会百年史』より)

法華コモンズ仏教学林「法華仏教講座」 代表世話人が講義


 令和8年2月28日(土)東京・新宿の常圓寺祖師堂地階ホールにおいて、法華コモンズ仏教学林「法華仏教講座(第4回)」が開催された。
 今回の講演は「真世界文化研究会の目的と発足について」と題して、同会の代表世話人である田中壮谷賽主が担当され、真世界文化研究会の機関誌「師子王」発刊の七つの目的、
1、対立なく調和に満ちた真世界の現出をめざす
2、世界絶対平和の境地たる八紘一宇の実現をめざす
3、正しき宗教観に基づく日蓮門下の統一をめざす
4、伝統的精神と今日的感覚を融合した「日蓮主義」の樹立をめざす
5、現代社会の課題解決に繋がる「日本国体学」の確立をめざす
6、人間存在の本質を踏まえた信仰心の喚び起しをめざす
7、家庭における教化を通じた続種護法の達成をめざす
にそって、ご自身の経験をもとに進められた。
 恩師田中智学先生の御教えを今後布教する事において大切なのは、多様な外国文化・現代の若者の価値観・生き方・悩みに寄り添い、旧来の布教方法にこだわることのない、現代人のための教化を模索していくことだと述べられた。
 ご参考までに法華コモンズ仏教学林発行の冊子「法華仏教講座受講の手引き」のために提供した講義概要を以下掲載いたします。

【講義概要】
 田中智学先生の生涯に亘る事業を引き継いだ三団体(国柱会・立正教団・立憲養正会)による共同研究機関、「真世界文化研究会」を令和六年二月十一日に発足させた。
 本研究機関の活動目的は、国柱会の「真世界運動」の再建を企図するものである。真世界運動は、日蓮聖人七百遠忌をめざす会勢拡大五カ年運動、すなわち「現代の立正安国運動」として昭和五十一年度定例協議員会にて可決された運動であった。当時の国柱会機関誌『日蓮主義』昭和五十二年一月号には「真世界運動とは、新興宗教や既成宗教に満足することができず、しかも正しい宗教を求めている世の人々に、現代の感覚と認識方法で日蓮主義に結縁させる運動。そのために日蓮主義は一往表に出さず、まず仏教の基本の教である縁起の理法を、人生の実相に即してわかりやすく認識させ、次第に心田を開拓して、ついに御本尊を奉安して唱題するに至らしめようとするものである。」とあり、会勢拡大に向けた大衆結縁運動として始められたもので、「真世界」という名称は、『本化妙宗宗綱』の「常寂光明の真世界を現出せんが為に建立伝弘せられたる、閻浮統一の名教なり」に拠っている。
 今回は、その真世界文化研究会設立の経緯と現状、そして将来の展望を述べたい。


国柱会について


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