これが人間の所業とは?

2019年08月01日(木曜日)

 またまたおぞましい事件が起きました。思いたくもない卑劣極まりない犯行の犠牲になられました方々の菩提増進を心よりお祈り申し上げますと共に、ご遺族の方々に心よりお悔やみを申し上げます。
 この様なニュースに接すると、これが人間の所業とは? とただただ驚くばかりです。仏教では、人の心の有り方を、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天・声聞・縁覚・菩薩・仏といった十種に分ける「十界」が説かれていますが、このような行為はまさに地獄の心のなせる業としか言いようがありません。とはいえ、「十界互具」と教えられていますように、このような十種の心も、それぞれの有り方が固定されて別々にあるわけではなく、色々な縁によって互いに移り合うものだと思います。社会全体の様々な有り方が絡み合って、このような地獄の心を生み出したとも言えます。法華経では、「仏種は縁によって起こる」と説かれていますが、「地獄の心も縁によって起こる」とも言えます。今後、このようなおぞましい事件が起こらないような社会を作るためにはどうすればよいか、私達ひとりひとりに課せられた問題だと思います。とりわけ私達仏教徒が、もっと世の中に出ていき、社会の中で仏意に触れる機会を積極的に提供していかなければなりません。
 昨今、お寺離れという言葉をよく耳にしますが、事実その通りだと思います。お彼岸やお盆といっても、お参りに来られるは、以前より目に見えて減ってきています。以前は、お寺や神社などの縁日に、多くの人々が相集って時を共有していました。そして、そこには人と人との触れ合いがありました。最近は神社仏閣にその様な活気が見受けられません。このことにより、互いの交流の場がなくなり、個々人ばらばらの孤独な社会が生まれ、このような社会が利己的な人間を作り、常軌を逸した犯罪を生んだのではないかと思います。これも、我々の責任だと思います。その様な事が少しでも減るようにと願って、いろいろと方策を練っているところです。皆様のご協力をお願いします。
 日頃、私は、祈りは根本心の表現だと心得、一生懸命に祈りを捧げています。祈りによって仏意に触れ、仏の願いを我が願いとして、皆様と共に幸せな毎日を送れること、これが私の理想であります。私は、大勢の人の前で話すことやこの様な文章を綴ることが苦手で、思いの丈をうまく表現できませんが、祈りを通じて、我が意を感じとって頂けたらと願っています。

国柱会霊廟賽主 田中壮谷



真世界巻頭言


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