仏は しびと にあらず

2013年03月31日(日曜日)

 「仏はしびとにあらず」。これは恩師田中智学先生のおことばであります。日本では、仏教というと葬儀を思い出し、「仏」というと「しびと」のことだと理解しているひとが多いのが現状ですが、「仏」は真理を体得した人のことで、決して「しびと」を意味する言葉ではありません。恩師は、仏教は、死者への教えではなく、人生全般を導く教えであると説かれました。人はだれしも、生れた以上必ず死を迎え、それがいつになるかはわからずに生きています。今夜や死んだらどうする、と日々自分の死を見つめ、より良き生を送るために、仏教がもっと生活に密着しなければならないと教導されました。本会を創立されたのも、その思いからではないかと推察します。
 先日、祖父の書斎の本棚から、恩師が、示寂される三年前に、痛烈に自己批判されている文書がみつかりました。それは、御自身の想いを書きとめられたメモ帳のようなものですが、「法華経広宣流布の運動に邁進するも、時勢の非とはいえ余りの心外なり」と書かれてあり、思い描く通りに効を為せなかったことに対して、深い自責の念を抱いておられたことが感じられました。私などは、つい、「この時勢」という言葉を言い訳にして怠りがちですが、時勢の非にあっても心を砕かれる恩師の御文章を読み、襟を正しました。
 この文に接し、自分自身、やはり今のままではまずいと強く反省しております。私はこれまで、被災地域に赴き、いろいろなボランティア活動のなかで、自分に適していると感じた仕事として瓦礫の撤去作業を行ってきました、仏教徒として、ほかにやるべき事があるのではないかと反省しています。被災者には、心のケアーが一番大事だと思います。被災地では、家族を失い、さらにはその後の風評により、心に様々な傷を負わされた方々が多くおられます。なかには、復興を夢見てがんばっているのにもかかわらず、その兆しすら見えないまま死を迎えられるお年寄りの方もおられます。いまこそ全国の仏教徒が力を合わせて、被災者の心のケアーに努力しなければならないときです。宗教者として、祈りを捧げる事だけでなく、現実的な運動をもっと積極的に実行していきましょう。これまで、被災地に出かけ、ただ黙々と瓦礫撤去作業に従事してきましたが、今後、これを反省し、為すべき事や為せることをよく考え、しっかりと現実に向き合う力を身につけて日々精進したいと思っています。
 そのためにも、仏教に対する領解を深くしなければなりません。それを可能にするのは信仰だと思います。私は、正直にこの信仰に出会えたことがとても幸せです。一日の中でやはり、様々な事が起きてイライラしたりする事も人間だからでありますが、そんな時にも、信仰のお陰で、心がとても豊かな気持ちになれるのは、やはりこの信仰のお陰とはっきりと自覚できます。多事多難な日々を、信仰の力で乗り越えていきましょう。

国柱会賽主 田中壮谷




真世界巻頭言


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