臨終の事を習うて後に他事を習ふべし

2010年12月09日(木曜日)

日蓮幼少の時より仏法を学び候ひしが、念願すらく、人の寿命は無常なり、出づるいきは入るいきを待つことなし。風の前の露なほ譬えにあらず。賢きもはかなきも、老いたるも若きも定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習ふべし。『妙法尼御前御返事』

 人は必ず死すべきものと定まっており、自分自身もいずれは臨終を迎えなくてはなりませんが、誰しも日頃は、そのことに気付かないふりをして、自分とは無関係だと決めこんでしまいがちでいます。それでも、身内の者との分かれに遭えば、これほどつらい事はありません。このことは、病床の身にある人や今まさに臨終を迎えようとしているすべての方に対しても同じことがいえますが、身内の者に対して敏感であっても、他人の場合となると、それほど深く感じる事がないのが実状です。日蓮聖人は『諌暁八幡鈔』において、「一切衆生の同一の苦は、悉くこれ日蓮一人の苦なり。」と述べておられますが、このような心境が得られれば、自分自身の死についても、もとより怖れるに足らないものと思われます。
 それでは、どうすればこのような心境が得られるでしょうか。それは、心をこめて、「南無妙法蓮華経」とお唱えする以外にないと思います。「南無妙法蓮華経」は、真理を説かれた『法華経』に帰依することを意味しますが、つまりは、おのれのはからいを捨てて、真理に随順することに専心することだと思います。声も惜しまず繰り返して「南無妙法蓮華経」とお唱えることによって、自然に、自己のこころが法華経のこころと一体になれるものと確信しています。とはいえ、いまだにその心境になれないのは、信仰しているとはいえ、真の信仰に徹する心構えができていないのかもしれません。常に謙虚に自己を見つめなおす事が大切なのだなと反省しております。
 今年も後わずかとなりました。この一年を憶年し、その足跡を糧として新しい年を迎え、ともに、一層の信行増進に努めましょう。

国柱会賽主 田中壮谷



真世界巻頭言


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