立正安国の祈り

2017年03月01日(水曜日)

 国柱会本部では、毎日欠かすことなく午前11時30分より日課国禱正中法座が行われ、立正安国のお祈りを捧げております。この法座においては、私はいつも地球上の全ての人々が幸せになることの願いをこめてお祈りを捧げています。世界全体が一体化された今の世の中にあっては、世界全体の安泰なくして自国の安泰は有り得ません。自国の安泰は、他国との共存共栄を願う中にこそ実現されるのであり、立正安国の祈りも、他国を度外視して日本のみの安泰を願う祈りであってはならないと思います。私達同志の願業である「一天四海皆帰妙法」と重ね合わせて理解すべきだと思います。現実の社会においては、このことの成就にはまだまだ程遠い状況にあるのは事実ですが、この祈りをいっときでも絶やせてはならないと思います。
 「一天四海皆帰妙法」は壮大な目標であり、成就までにはかなりの歳月がかかる事は、紛れもない事実であります。先日、日蓮聖人ご降誕慶賛法要後に開かれましたご聖日集会の際に、参加頂いた会員さんより、短期的に実行できるような誰にもわかりやすい目標を示して頂きたいとのご指摘を頂きました。祈り以外に何をすべきか、私にとっていつも気にかかっている大きな問題です。同志の皆さまにおかれましても、よい案を思いつかれましたらご教示いただきたくお願いします。
 これからの運動のあり方を考えていて感じることですが、まずもって、信仰している人間が排他的な態度にならないことが大事だと思います。しかし、周囲を見渡しますと「私は信仰しています」と自認している方々ほど、自分の信じていること以外のいろいろな考え方に対し非寛容で、排他的であるような印象を受けます。これでは、「自行ばかりにしてさて止みぬ」といったことに終止し、世界全体の幸せを目指すといった目標から遠ざかるばかりだと思います。いわれなく他を拒んでいないか、まずは自身の信仰の姿を見つめ直してみることが大切だと思います。
 私は、役目柄仏教徒のみならず宗教界の色々な方々と接する機会が多いですが、しばしば排他的だと感じる方に出会います。世界に目を向けると、信仰故の排他的な考え方から起こった紛争が数多くあります。排他的な信仰は本来の意味からの宗教とかけ離れているのではないかと危惧をしています。不思議に思うのは、法華経を信仰している方のなかにも排他的と感じられる方が多いことです。私の経験を踏まえていえば、法華経の信仰は決して排他的なものではなく、私自身を自他一体のおおらかな心へと導いてくれます。誰もがこのような信仰を大事にすれば、世界の平和に向けて一歩でも近づけるのではないかと信じております。

国柱会霊廟賽主 田中壮谷



真世界巻頭言


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