お盆を迎えて

2017年07月09日(日曜日)

 私の人生は、常に誰かが大切な人を亡くし悲しんでいる中にあります。無論私自身がその当事者になることもあります。大事な家族が長い闘病生活の後に死を迎える経験はこの十年間の間に沢山ありました。お通夜の時、また火葬場での事色々と思い出します。お腹を痛め、私を育ててくれた母の死は、とても辛い経験でした。様々な苦労があったのは、知っています。母が亡くなってから、私を気遣ってか、過去の様々な辛い経験などを、周りの人は可哀想だったとか、母に同情してお話をしてくださいました。私は、そのような辛い過去があろうとも、母の人生は幸せだったと思います。
 正葬儀に導師としてお勤めをしても、私が経験した事と似た状況は、過去にも沢山ございます。亡くなった方は、誰しも望んで死んだ訳ではありません。亡くなった方が不幸だったと、本人でもないのに、生きている我々が勝手に判断して口に出すことに何の意味があるのでしょうか。私は、疑問に思えます。私は、母の苦労をわかった上でも決して不幸だったと思いません。幸せな人生だったと思います。強がりな気持ちも全くないわけでは無いですが、そんなことを思ったら可哀想でなりません。
 以前にもお話いたしましたが、母は、亡くなる少し前「妙宗大霊廟に入ったら、色々な方々が会いに来て下さるから決して寂しく無い」「私の知らない方もお参りにきて下さるから楽しみだ」と言っておりました。その時「顛倒して悲しみ且つ嘆く。即ち是れ徒労の涙なり」「須く仮を転じて真にいるべし」という臨葬教訣の一場面が頭に浮かびました。そして、息を引き取る寸前は、既に仏身になって、私に教えて下さったのだと改めて感じいりました。
 こちらも前に述べましたが、後に残された私達も必ずいつかは亡くなります。大聖人のお言葉の「臨終の事を習うて後に他事を習ふべし」を、改めて深く考えなおしましょう。人生は限られています。なすべき事、伝える事を学び、より良い世界を子孫に残す為にがんばりましょう。行き詰まったときは、こころを込めて「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えましょう。私は、お題目によって元気を頂いていることを実感しております。お題目を唱えて元気を頂いて、皆さん共にがんばりましょう。決して落ち込むことはありません。一人一人はちっぽけな存在ですが、異体同心し大きな菩薩の心を頂いて行動すれば、良い方向へと変わります。自らの幸せより先に、他を救うという願業をもつ我々が、世の中を変えていく主役なのです。
 また皆様と盂蘭盆大供養会にて、共にご先祖様に報恩感謝の唱題を捧げたいと切に願っております。
南無妙法蓮華経

霊廟賽主 田中壮谷



真世界巻頭言


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