因縁について

2017年10月05日(木曜日)

 私達は、日頃よく因縁ということばを使いますが、このことばは、もともと仏教に由来しています。仏教では、あらゆるものが因(直接的原因)や縁(間接的原因)の和合によって存在すると説き、因縁を大事にしなければならないことを教えていますが、自分自身の有り方に目を向けると、確かに、今の存在が色々な因縁の積み重ねによっていることが実感されます。因縁によって生を受け、因縁によって育まれてきた私自身ですが、ときにはその因縁が疎ましく感じたりする事もありましたが、皆さまはいかがでしょうか。しかし、再考してみると、疎ましく感じた過去も、それをばねにして自分が成長してきたのであり、今は、そのような因縁に感謝しており、今後はそれらを活かすように努めなければならないと考えています。
 いつも機関紙『真世界』をお読み下さっている方のご家族のなかには、二十代の方もおられるかとも思います。私事になって恐縮ですが、若い方々の何らかの参考になることを願って、今回、私の二十代のときの経験をすこし書かせて頂きたいと思います。予期せぬ事が起きたのは、二十五歳の時でした。その頃、先ず臨終の事を習ふて後に他事を習ふべしといった大聖人の教えも身に読むことなく、親はいつまでもいるものとばかり思いこんでいましたところ、突然母から、末期の癌である事を打ち明けられました。それから間もなく、よんどころない事情から、国柱会の経営のすべてを私が引き受けざるを得なくなりました。これも因縁のなせるわざと、深く考えることなく成り行きにまかせて引き受けたものの、再考してみると、その職責の重要さに気づき打ちのめされました。今の私の役職名は賽主であります。賽主としてのあり方を考えるとき、私にとっては、祖父の有り方が念頭に浮かびます。祖父は、毎日の祈りを欠かすことがない信仰の人であると同時に、学者肌の人でした。その後私は、祖父の物真似をしようと必死に努めてきましたが、性格も真逆で、目標が空回りするばかりで今日に至っています。
 今自分をふりかえってみたとき、仏教徒らしく振舞わねばと、社会の目を気にしすぎてきたところがあったのではないかと反省しています。国柱会は在家仏教を標榜していますが、一般社会の人からみれば、住職さんと同じイメージで捉えられています。いっとき、出家のお坊さんの真似をして剃髪したこともありました。また、他人には命を大事にして下さいと言いながら、自暴自棄になって、毎日どうしたら死ねるのかとばかり考えていた時期もありました。この様な原因を生んだのは、自分が生まれて来た因縁を素直に受け入れる事が出来なかったことに原因がありました。因縁を受け入れる事は自分を殺すことではないのです。自分らしさを大切にして、因縁の中で生きることは可能だと思います。それが当時の私にはわかりませんでした。私は、今因縁の中でとても自由に生活をしております。祈りを捧げる勤行は、因縁を活かすことができたことを自覚する喜びに瞬間とも言えます。正直言って、文章伝導も苦手、気のきいた法話もできません。苦手を人に見せてはいけないと思い込んでいたのが間違いでした。信仰の中に生活があると考え、もっと自由に自分の事を正直に出していいのだと感じるようになりました。見た目は大事だとは思いますが、あまり見た目を意識しすぎたため、自分に嘘をつき、そして周りの人たちにも嘘をついてしまっていたのです。嘘をつくから心が蝕まれ、自暴自棄になってしまったのですね。色々な転機を迎える二十代の方々には、同じ様な過ちを犯して欲しくありません。
 因縁を楽しみ一度きりの人生を楽しく過ごして頂きたいと心から思います。最後に皆様のご幸せをお祈り申し上げます。

国柱会霊廟賽主 田中壮谷



真世界巻頭言


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