共業の解決を目指して

2020年08月01日(土曜日)

 九州・中国・中部地方に特に大きな被害をもたらした先月の大豪雨災害におきまして、被災し亡くなられた方々の菩提増進を心よりお祈り申し上げますと共に、大事なご家族を失われた方々に心よりお悔やみ申し上げます。
 いつもの私なら、ボランティアの一人として早速に被災地にかけつけたことと思いますが、いまやコロナ禍の真っ最中、被災地に向かうこともままならず、この状況を一体何に対して怒ったらよいか、恨み辛みが重なってイライラするばかりで、ただただ自分の無力さを嘆くばかりです。
 仏教では、宗派を超えて一般に、様々な恨み辛みも貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)といった煩悩から生じるのであり、それぞれに修行を積んで煩悩を無くすことによって平安が得られると説いています。その意味では、困っている人々をすこしでも助けてあげたいなどと身のほど知らぬ思い上がりの心を懐くのも煩悩の一種で、心の平安を得るには、このような煩悩を払拭するのがよいのかもしれません。しかし、それではますますイライラが積もりそうで同意いたしかねます。個々人が煩悩を無くすことも大切ですが、コロナ禍にしろ、災害にしろ、個々人の心を磨くことだけでは解決できる問題ではありません。ここで思い出されるのは、諸先輩から教わった「共業(ぐうごう)」といった言葉です。説明不要とも思いますが、仏教では重要な教えとして「業(ごう)(=行為)」が説かれています。現在の「業」がその報いとして未来を規定するといった考え方で、端的に言えば善い行いをすれば善い結果が得られるといった教えです。また、「業」にも、「共業」と「別業(不共業とも云う)」といった区別があると教えられています。前者は、他人と共有し得る果報をもたらすような行為のことで、後者は、果報が行為者本人のみに及ぶような行為の事です。一般に「業」というとここでいう「別業」の意味で理解されているようですが、日蓮聖人の主著に『立正安国論』がありますように、日蓮主義ではとりわけて「共業」の解決が重要であると説かれています。この教えに従えば、コロナ禍や災害は当に共業の問題として考えることが肝要です。ボランティアに行けないために抱くイライラも、煩悩の一種として滅除することに精出すよりも、「共業」の解決を目指すための一里塚として活用することが重要ではないかと、おそまき乍ら気づいた次第です。「共業」の解決には、皆と協力し合うことこそが大事であることは確かですが、それでは何を行うのがよいか、未だ解答が得られず悩んでいるところです。皆様の御教唆が頂ければこれほどの喜びはございません。
 コロナ問題が一日でも早く終息して病悩が速除され、世界人類全体に平安な日々が訪れますよう心よりお祈り申し上げます。

国柱会霊廟賽主 田中壮谷



真世界巻頭言


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