先ず自己を空ぜよ

2022年07月09日(土曜日)

聖祖(せいそ)の御出現は、正しく法性(ほっしやう)海中の影現(ようげん)、吾(われ)等(ら)本來(ほんらい)の色(しき)心(しん)を再現したまえるもの、今われ幸(さいはい)にしてこの正敎に逢ふて、無始(むし)已來(いらい)の宿瞑(しゆくめい)をひらきぬ虔(つつしん)で従來自己の身心なりと思(し)惟(ゆい)せる、此(この)妄身(まうしん)妄議(まうぎ)をその儘(まま)、聖祖の大攝(だいせう)受海中に投入し奉り、必ず自ら吾が身心を吾物視(わがものし)せず、細大(さいだい)進退すべて 聖祖のおん旨(むね)にまかせ奉り畢(おわ)んぬ、悟(さと)らんともせず、迷はんとも思はず、成佛何ものぞ、地獄何ものぞ、佛天も護らざれ、災難も來(きた)れ、善ともなれ、惡ともなれ、世間何するものぞ、人間何するものぞ、苦樂(くらく)の何(いづ)れを樂(ねが)はず、毀譽(きよ)の如(い)何(かん)を顧(かへり)みず、われは唯今(ただいま)只(ただ)わが 聖祖を信じ奉り、 聖祖を慕(した)ひ奉れば足れり、理想もここに於(おい)てし、實行もここに於てし、安心(あんじん)もここに於てし、立命(りつめい)もここに於てす、天地法界の大も 聖祖在(まし)まさずんば、微塵(みじん)よりも小に夢よりもはかなし、大千(だいせん)恒沙(ごうじや)の佛法も 聖祖在(ま)しまさずんば反古(ほご)に均(ひと)し、 聖祖の宣(の)たまふ所を言ひ 聖祖の行じたまふ所を行じ 聖祖の念(おも)ひたまふ所を念ず、わが能事ここに盡(つ)きたり、とかく念願を固くして信心單一なる時は、 祖(そ)訓(くん)を拜(はい)して 聖意おぼろげに現在前(ぜん)すべし、念々刻々日々夜々、少しも此(この)心を失はずあらば、いつとなく正知見(しやうちけん)を得るものなり、敢(あへ)て何等(なんら)の才覺も要ることにあらず。

 以上は、恩師田中智学先生が、明治三十三年八月に『妙宗』(第三編第八号)にて発表された御文章「先づ自己を空せよ」からの抜粋です。
仏教の教えは、法華経の方便品の中にも「難解難入」と書かれているように、自分で納得しながら理解しその世界に入り込むことは難しいことだと思いますが、上掲の文にありますように、聖祖(日蓮聖人)を信じ、聖祖をお慕いし、聖祖が宣べられたことをそのままにお取次ぎし、聖祖の願いを自らの願いとして、聖祖が為されたことの一分でも自分でも行おうと努めることは私にもできるように思います。
上掲の文に接し、構えずに自然体に素直な心で努めておりさえすれば、いつの日にか成仏できるものであると勇気づけられました。
 私は難信難解の法門も聖祖に異体同心する事で自然に体得できるものと信じ、毎日法華経を読誦しています。皆様も、まず自己を空じて、難しいとかの偏見を捨てて共に信行増進をはかりましょう。

国柱会霊廟賽主 田中壮谷



真世界巻頭言


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