恩師田中智学先生のお言葉 令和5年3月号

2023年03月01日(水曜日)

明治19年(1886)2月、恩師田中智学先生御年26才の時、立正安国会の専用会堂(本部)として、日本橋蛎殻町(現、日本橋人形町)に「立正閣」が創建されました。ここに於いて、現在の国柱会にも受け継がれている本化儀典が制定されました。



立正閣の創建
   其一 結婚式制定


(前略)我が國の民族的習慣として子供が生れると三十日にして始めて宮詣りといふことをする、敎徒として
は先づ第一に御本尊に參詣して、此の世に生れ出て來たものとして最初の歸敬の式を親がなり代って御本尊に誓ふといふ儀式を制定したのである、今これを滿月會と稱して居る、其の頂經式の式典を制定發布した、それから續いて結婚式を制定した、これは從來日本の結婚式といふものは、民間習俗中の最も大きいものであるが、これには全然宗敎の干渉を許さないといふ傾向で、萬事いろいろのお目出たづくめで式を執り行ふ、菩提寺の和尚を參列させるとか、お經を讀むとかいふことは絶對にしない、寧ろそれを忌み嫌ふといふ風がある、結婚式のみならず一體は、他地方でもさうか知らんが、先づ東京などでは三ヶ日にお寺の坊さんが年頭の挨拶に檀家にも行かないことになって居る、四日から先でなければ坊さんの年賀といふものはやらぬことになって居る、そんな譯だから一生一代の極く目出たい時に、當然參加すべき宗敎の支配者たる菩提寺を除外するといふ傾向をなすわけで、これ以て甚だ宗敎の信念及び儀相の上に於いて不思議なことである、その見地から此の愚な風習を打ち破らうといふので結婚式を制定した。
     ◇
 ところが從來さういふことに宗敎が關係しなかったといふことには、信徒の心得が違って居ったばかりではないので、先づ宗敎家即ち坊さんだが、その職務は何だといふと、大體葬式をすることが唯一の職務になって居る、要するに葬式屋として見て居る、人の感情風俗からいって、人の死ぬといふことは一ばん嫌ふので、目出度いことに葬式のことを混入することは甚だ困る、そこでまァ三ヶ日にも坊さんは來ないわけで、醫者も矢っ張りさうだ、三ヶ日は年禮に行かない、藥土瓶は三ヶ日はどっかの隅の方に封じてしまっておく、病ふことゝ死ぬこととは、共に排斥の運命にあふといふことは、職務がさういふ不吉を意味して居る職務だとならば、除外されることも當然なわけだ。で今でこそ宗敎家も宗敎的意識といふものがだんだんはっきりして來たけれども、幕府時代にあっては純然たる葬式本位の職業であるんだから、菩提寺といふのは菩提心を起こす修養の寺といふのでなく死人の菩提を弔ふ意味の菩提だから、菩提そのものが既に死んで居るのだ、だから死人を取扱ふ職業の人であるからといふので正月だとか結婚式だとかいふ目出度い筵からは、當然遠ざかる樣になった。
これは一往無理からぬやうな事態であるけれども、要するに宗敎を理解しないところから來たもので、宗敎が安心立命の大切なものであるとすれば、其の人の一生を通じて信仰する宗敎は、即ち自分の存在の第一義でなければならぬ、即ち生命でなければならぬ、してみれば結婚式の如き一世一代の大切な式典に、何を措いても先づ宗敎の統監を受けてやらねばならぬ筈のものなんだ、それを度外して居るといふことは要するに宗敎意識が片輪である證據だし、又そんな風俗をいゝヮといって僧侶自からが自分で除けものになって居るといったやうな情ない不見識なことゝいふものは、これ以て宗敎意識を缺いて居る、兩方とも宗敎意識に於て落第したものだ。
だからこの愚態を打ち破って、健全な宗敎意識及び宗敎風俗を復活せんければならぬといふところから、佛敎家が嘗て以てこころみなかった宗敎結婚式を制定することになった、其の式は其の後兩三回改良を加へて現行の式になったけれども、先づ骨子は御本尊の御前に於いて式典をあげる、さうして始めて世に立つ新郎新婦が結婚といふ新しい意識の下に、具體的信念によって受戒の作法を行ふ、(中略)
即ち世に立つ始まりといふ其の好機會に於いて、正法受持の誓を新たにするといふ、斯ういふ作法である、それから所謂成ほどとや思ひけんで、眞宗や禪宗あたりでポチポチ宗敎結婚式をやるやうになった、法華でもはじめるやうになった、兎も角も死人をいぢって居るのが佛敎の本領ではない、活きた社會をより以上活かして行くといふことが宗敎だから、こんな目出度いことはないので、それを如何にも下劣極まった佛敎の因習にとらはれて、能所共に斯ういふ病的現象を長いこと放置して、卑屈退嬰の極に沈淪して居ったといふことは、宗敎の活氣を殺いだ第一原因ともいへるといふものだが、斷然これを打ち破って結婚式を行ったので、佛敎における宗敎的結婚式は吾輩がそもそも第一鞭をつけて、これを敎會の主なる式典としたので、つゞいて歸正式であるとか、或は兵役に行く入營式であるとかいふものを制定することになった。
 其の後葬式も矢張り結婚式と均り合ひをとるやうに、宗敎の敎義安心に則った式典を制定することになった、後年宗歌を制定して宗門獨立音樂を作ったりしたことも、みんな意志はこゝから胚胎して來て居る、これが先づ立正閣開敎當時の、宗敎儀禮の制定の口あけであった(後略)   (『師子王談叢篇(二)』より)



真世界巻頭言


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