未だ得ざるをこれ得たりと謂う

2023年10月08日(日曜日)

 タイトルに掲げましたのは、法華経勧持品の中の一節です。勧持品には、法華経を弘めようとすると、本当のところをまだ信得していないにかかわらず自分では既に得たと謂(おも)っている増上慢が現れて迫害に及ぶことが書かれています。
 現今、この文言通りに生半可な習得で得た知識をもとにして法華経や日蓮聖人を論評し、「これ得たり」と呼称する学者風の増上慢が充満していますが、その内容の真贋をよく見極め、その足らざるを補いもしくは誤りを正し、本当の教えが何かを明らかにしていかなければなりません。
 それと同時に、自分自身が増上慢にならないように気を付けなければならないと思います。現代は、自分が知りたいと思う情報を、その気になればなんでも即座に、手に入れることができます。こんな時代、人に先んじて多くの知識を身に着けてみんなに吹聴したくなりますが、その学んだ知識を、人に対して或いは世間に対して活用してこそ意義があります。自分が手にした知識が、社会をよくするためにどれだけ役立っているか、ときおり立ち止まって反省してみることが必要だと思います。
 巷には様々な見識が飛び交い、その中には互いに反目し合うものもあります。私たちは一切衆生の平安を願う信仰者でありますが、時として教義論争に巻き込まれる事があります。国柱会の創業者である恩師田中智学先生も、信仰の対象である本尊について様々な論戦を交わされたと伺っています。私自身も論戦を吹っ掛けられたことが何度かあります。論戦となると、皆が自分の意見を出し合って纏まらないのが常です。そんな場合私は、仏教の教え、法華経の教え、大聖人の教えそして恩師の教えを通して信仰をしていることを述べ、議論には決して参加せず、恩師が定められた事を護り、祈りを捧げる行者でありたいと願っていると、日頃思っていることを答えることにしています。
 私達は法華経の行者であって論者ではありません。自分自身の罪障消滅のためにも、自分が増上慢にならない様に心がけ「今身より仏身に至るまでよく持ち奉るたてまつる南無妙法蓮華経」とこれからも、法華経の行者としての願業生活を共に切磋琢磨していきましょう。

国柱会霊廟賽主 田中壮谷




真世界巻頭言


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