信仰と実生活

2008年02月26日(火曜日)

毎日の生活のなかで、はっとした事を、皆様も経験されることが多いのではないでしょうか。私は何度かそのような経験があります。今回、私の身に起きたことではないのですが、偶然その場に居合わせた時の事を紹介し、一緒に考えてみたいと思います。

とても交通量の多い交差点での出来事でした。交差点に向かって私が歩いていると、車のスリップするものすごい音が聞こえ、その瞬間私の視界に入ったのは、人がその車に向かって突進していく光景でした。その先にもう一人の人がいました。その人を救うべく車にむかって行ったのです。不幸中の幸いその方のお陰で二人とも軽い怪我ですみました。

しかしその後で、救われた方の口から出た言葉が「神様のおかげだ」でした。その後も、助けてもらった方への感謝の言葉は出ず、ただ悦に入って、「神のおかげで助かった」を連呼していました。私が、身を挺して貴方の命を救った方への感謝の気持ちを伝えましたか、と話かけても、もはや届きませんでした。その方が信じる「神」とは如何様な神様だか私は知りませんが、自身の命を救って貰った命の恩人に対して、報恩も教えない神様なのだな、と思いました。すくなくとも仏教徒ではないでしょうね。報恩の心がなければ、仏教徒として忘れてはならない慈悲の心も生まれません。慈悲の心を欠いた信仰は、御利益ほしさの個人主義の信仰に終わると思います。

人として生きていく中には、多くの痛みも感じることがあります。それが現実の世界です。全ての事柄に対して常に忘れてはいけないのは、何をするにしても、慈悲の心を根本において行わなければならないということです。たとえ悪いことをした政治家の事を新聞社にリークする場合でさえ、慈悲の心をもって行わなければなりません。その事を記事にする新聞社も然り、世の中、何事においても慈悲の心を持っておこなうべきです。悪いことをした人に社会的な制裁措置を施す事、それは大いに必要だと思いますが、そのすべては、慈悲心から出たものでなければ、何の意味も有りません。字義通りの唯の制裁に終わってしまいます。

慈悲の心は、正しい信仰によってこそ育つのです。個人主義の信仰にならない様に心しなければなりません。交差点で出会った方が、もし個人主義の信仰であるなら、一日でも早く、このことに気付いて、正しい信仰に目覚めてほしいと思います。私達も、魔が入らぬように、精一杯気を締めて頑張りましょう。




真世界巻頭言


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