2008年02月13日(水曜日)
昨年私は、大勢の同じ志をもった方々に支えられて、母に最初であり最後でもある、そして最高の親孝行ができました。実際、母の在りし時は、いつも母親に甘えてばかりいて親不孝ばかりしていました。
今一度あらためて全国の皆様に紙面をお借り致しまして、一言御礼を申し上げさせて頂きます。誠にありがとうございました。
気持ちというものを整理することはとても難しい事だとつくづく感じました。何かに打ち込んでいるときは、誰しも没頭しているからいいのでしょうが、ふとした時に様々な雑念が隙間に入り込んでくるものです。
人生は、予期せぬ事、予期していても回避できないことが多々あります。人生において誰しも平等にはっきりわかっていることは、やがてこの人生にも終わりがくることです。その日が訪れるまでは、しっかりとがんばって、世の中の為に貢献していきたいと思います。
ときおり私は思います。世間を見渡してみると、様々な人々が痛み苦しんでいる、その人々が痛み苦しんでいる、その痛み苦しみをすべて自分で背負っていけたら良いなと思うことがあります。現実には無理な話ですが。
さて、今からさかのぼること三十一年前の今月十九日に、母は私を産んでくれました。私の母が特別大変だったわけでなく、世の中の母親の皆様も同じだと思いますが、お産のくるしみもさることながら、重たい体を体内で護りながら十ヶ月間何処へでも連れあるくわけですからとても大変なことですね。
大聖人は、御年五十八歳のときに、御遺文『日眼女釋迦仏供養事』において、「日本国と申すは女人の国と申す国也」と書かれています。母との思い出を振り返り、つくづくそうだな、と思いました。
私自身が名付け親になった母の法諡「安穏院妙功日枝大姉」には、様々な思いがこもっています。
母の誕生日は、不思議な因縁で妙宗大霊廟創建の四月十五日です。その因縁で田中の家に嫁いできたのでしょうか。私は法諡の「妙功」に、特にこだわりました。表したかったことは、妙なる功、すなわちすばらしい功績です。私という人間は、ものに喩えていえば母の作品です。この作品をより輝かせるために、私自身がもっとしっかりとがんばっていかなければならないという気持ちをこの字句に込めました。母が私を生んだこと、これがすなわちすばらしい功績となる様に。
皆様同志の一人一人が証人です。まだまだ若輩でありますが、内典の孝経と言われる法華経の行者として誰しもが納得していただける様に、日々精進してまいりますのでよろしくお願い申し上げます。よろしくお願い申し上げます。