2014年08月05日(火曜日)
先日、マレーシア航空機がウクライナ東部に墜落し、多くの犠牲者がでるという痛ましい事件が報道されました。亡くなられた方々の御菩提増進を心よりお祈り申し上げます。このようなニュースに接すると、その方が誰であれまたその原因が何であれ、身が引き締まる思いがして厳粛な気分に包まれます。
人の死に接していつも思うことですが、その悲しみは、年を重ねて亡くなろうが、若くして亡くなろうが、年齢などには関係がありません。若ければ、無限の可能性を秘めたその人の未来がその時点で断ち切られるのであり、またお年寄りの場合には、これまでに長く生きてきたその尊い足跡をもはや本人から聞くことができないのであり、いずれにせよ、社会全体にとって大きな損失であり、個々人にとっても、大きな悲しみに変わりはありません。以前にも書いた事がありますが、私の母は五十七歳といった今の平均的な寿命からすれば遥かに若い年で亡くなりました。しかし母がたとえ二百歳で亡くなったとしても、大事な母を失った悲しみは同じだと思います。ときおり、火葬場などで、他家のご葬儀の会葬者同士が、臨終の際に立ち会ってもいないのに、「この歳なら納得だ。大往生だったね。」などと気軽に話し合っていることを耳にすることがあります。御遺族が聞かれたら,さぞつらい思いをされたことと思われます。それに、そばで聞いていてもあまり気分のいいものではありません。大事な家族を失った方々に対し、最低限の配慮をするべきでしょう。人間は必ず死ぬと言うことはまぎれもない事実でありますが、我々凡夫には、その事実を受け入れて納得するには時間も必要だと思います。私は、この様な経験から、自身に対しての教訓として、いつでも相手の立場になって考える事が大事だと言い聞かせております。皆さまに置かれましても、共に、少しでもお互いの心に気を配り合って、心穏やかに過ごせる様にしたいものですね。
国柱会霊廟賽主 田中壮谷