石原莞爾(いしはらかんじ)

明治22年、石原啓介(元山形県庄内藩士。莞爾の祖父は酒田奉行の要職を勤む)の長男として鶴岡に生まれた。仙台の幼年学校から士官学校(21期)をへて、明治42年、少尉に任官して山形の第32連隊に就任。会津若松連隊の新設にともなって転勤、陸軍大学校を優等で卒業後、同連隊の中隊長を勤め、連隊をして日本一すなわち世界一のものにしたいと猛訓練を施したが、その軍隊が護るべき日本の国はそれに値するのか、という疑いをもった。神主の出身の同僚から古神道の話を聞き、併せて日蓮聖人の悪口も聞いた。それが縁となって日蓮聖人の本を読み研究心をおこした。

教育総監部勤務から漢口に赴任することになった大正九年の春、国柱会館で純正日蓮主義講習会が開催されることをポスターで知り参加。智学先生の講義を聴講して、石原の魂は根底から揺り動かされた。先生に面会を求め最後の疑問を決し、即座に国柱会に入会、一躍信行員に列した。授与された御本尊を奉じて任地へおもむき修行に励んだ。その後、ドイツに留学したが朝夕の唱題礼拝をかかすことはなかったという。ドイツ留学前後、夫妻そろって最勝閣の講習会に参加、また国柱会館によく聴講した。石原が中心となって陸海軍将校の間で、日蓮研究グループがつくられ、山川智応講師を招いて研究会をしばしば開いた。また陸大に毎月1回智学先生をお招きして課外講演をという議が起きたが、石原の努力にも拘わらず実現に至らなかった。石原は戦争史および軍事学に本格的に取組み画期的な「世界最終戦論」を唱えた。

大正14年、最終戦争は数10年後に必至と予測、その対策として、国の進路を真剣に模索した。昭和6年に勃発した満州事変には、彼は関東軍参謀としてめざましい活躍をした。のち<五族協和の王道楽土>を理想とする満州建国に尽瘁、また<東亜聯盟運動>を興して一世を風靡した。世に「石原は満州侵略の張本人、彼が属した国柱会は軍国主義」という短絡な批判があるが、歴史の真実とはほど遠い。日支の戦火が拡がろうとしていた当時、参謀本部作戦第1部長であった石原少将は、ひとり「北支には一兵も出さぬ」と強硬に反対し通した。このままでは自壊自滅するという的確な判断があった。もし石原の方針に従っていたなら、国の運命は大きく変っていたであろう。

昭和15年、京都における精華会大会で石原は「仏教思想史上における田中智学先生の地位 」と題して講演、恩師滅後の青年指導にも大いに尽力した。終戦を迎え、石原は「敗戦は神意なり」と結論、山形県吹浦海岸西山農場に入り村つくりに着手した。石原は『戦争史大観』の中で「遂に私は日蓮聖人に到達して真の安心を得、大正9年漢口赴任前、国柱会の信行員となったのであった。殊に日蓮聖人の<前代未聞の大闘諍 - 閻浮提に起るべし>は、私の軍事研究に不動の目標を与えたのである。」と記しているが、智学先生の教導による深い信解にもとづき、日蓮聖人のおん弟子との法悦に浸り、敬虔な信者としてその生涯をおえた。時に昭和24年8月15日、行年61歳。遺骨はその年の春、子夫人の手で妙宗大霊廟に納められた。石原の遺した課題の意義は今も大きい。



田中智学先生に影響を受けた人々


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