植中直斎(うえなかちょくさい)

明治18年奈良県に生まれた。少年時代に日本画の修行を志し、深田直城に、のち橋本雅邦の門に入る。23歳で文展(今の日展)に入選したが、その後まもなく重症にかかった記事を新聞で読んだ田中先生は、その芸術の大成を希って援助を申出られ、それを機縁に先生の門に入った。要山師子王文庫にあって『妙宗』の絵画記者となり、先生より日蓮聖人の聖伝画制作の教導をうけ、その大成を生涯の画業と志した。

大正初めに最勝閣仏子の間に奉掲した聖伝画20図は、先生指導のもと直斎が下図をつくり、彼の至誠と努力によって小林古径ほか諸家も加わり、自らも11図を担当して完成した。直斎の先生敬仰の念はあつく、昭和4年、先生が教化総動員中に発病されるや、その病床慰問の為に2ヶ月余にわたり、毎日誠心こめて画いた絵をお届けした。先生はこれを問病画と題する雅帖にして愛蔵されたが、おしくも戦災でさきの聖伝画・宗史画(弟子檀越を画く)ともに烏有に帰した。

智学先生は昭和14年示寂、翌年3月正葬儀に際し、直斎は自ら「恩師御正葬儀絵巻」3巻19図を丹精こめて作成、大藪謙亮と志を合せて表装し義納した。なお植中直斎は若き日先生の指導によって畢生の願業と志した「日蓮聖人御一代御絵巻」約100図を、戦中戦後も一貫し病身に鞭うちつつ営々と作成し、完成の後、昭和52年92歳をもって帰寂した。その絵巻は現在身延山久遠寺に格護されている。



田中智学先生に影響を受けた人々


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