竹内久一(たけうちひさかず)

明治20年、上野に東京美術学校(東京芸大)が創立され、彫刻科が設けられたとき、校長岡倉覚三によって見出され、最初の教授に挙げられたのが木彫の竹内久一である。本会創業当時、無二の親友で立正安国会の会員であった清水晴風にすすめられ、田中智学先生の『法華経』の講話を聴聞して入信したときは、すでに美術学校の教授であった。久一は浅草に生まれたチャキチャキの江戸っ子で、提灯屋田蝶梅月(千社札制作で著名)の息子である。はじめ象牙彫刻を学んだが、明治13年春、探古美術会に出品された奈良興福寺の古像を見て深く感銘し、木彫に転じ、奈良へ行って心ゆくまで研究した。

あるとき、久一が先生を訪ねてきて「私は先生のご教恩に接して正法を持つことができました。これからは法華経の信を起こし安国会の会員になった甲斐ある仕事をやります。ついては出来あがったら、先生に一ぺんご覧願います」と言った。その作品こそ、明治23年の第3回内国勧業博覧会で受賞した「神武天皇像」である。26年のシカゴ万国博覧会に出品した「技芸天」とともに初期の代表作とされている。

久一は後に師子王文庫に献納の日蓮聖人御聖容はじめ博多の日蓮聖人の銅像、田辺の池の御立像を彫刻した。日蓮聖人の御尊容彫刻において、自ら日法上人の後継ぎをもって擬していた彼の抱負について、先生は「たしかに法華経的美術家」と認めて「本化大仏師」の号を賜ったところ、一代の面目と心から喜んだ。

竹内久一は明治39年に帝室技芸員になり、翌年開設された文展の審査委員をつとめ、大正五年に帰寂した。法名、厳相院久遠謙徳日一居士、妙宗大霊廟に遺骨が納鎮されている。



田中智学先生に影響を受けた人々


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