坪内逍遥(つぼうちしょうよう)

明治19年、田中智学先生が日本橋蛎殻町に立正閣が創建されて間もない頃、1人の来訪者があった。名刺をみると坪内雄蔵とある。雄蔵は逍遙の本名である。氏はすでに『小説神髄』や『当世書生気質』などを刊行して、文名嘖々たるものがあった。その逍遙が立正閣に先生を訪ねてきたのは、日蓮聖人の教義について教を受けたいからというのであった。教義の話が終わって、茶のみ話をしているときに、氏は先生から「日本で西洋に誇るべきものが2つある、1つは仏教、もう1つは日本の踊りだ」という話を聞いて、非常に感銘し、膝をたたいて喜んだ。先生と坪内博士との長い交際は、このときの初対面を契機として始まったのである。坪内博士の大きな文化的貢献の1つは、演劇研究とその革新運動であった。

明治39年、文芸協会を設立して演劇の革新運動にのり出し、自邸内に研究所を建てて新劇俳優の養成にあたり、わが国の新劇運動の先鞭をつけた。博士が新文芸家協会の旗揚げ興行として明治座で「法難」を上演するにあたっては、その内容について田中智学先生の意見を求められたし、先生が歌舞伎座で「佐渡」を上演される際には、博士の意見を求められたのであった。

大正4年、早大教授を退いてからは著作に専念。昭和3年、『シェークスピア』全集40巻の完成と古稀の賀を記念して、門下生知己の間に坪内博士記念演劇博物館建設の議が定まり、その所蔵の演劇文献資料は、ことごとく演劇博物館に寄附された。10月27日の開館式には智学先生も出席された。先生が『日本国体新講座』の開創について、朝野各士の意見を聞き賛同を求めたとき、博士は病中であったが、「天将以夫子為木鐔」という「論語」のことばを揮毫して、先生のもとに送ってこられた。

博士は昭和10年2月、77歳をもって熱海の双柿舎に没した。この文字は博士の絶筆であろうというので、先生はその文字を拡大模写し、額に仕立てて、演劇博物館に寄附されたのである。まさに博士は、畑こそ違え交友じつに50余年、先生にとって貴重な知己の1人であった。



田中智学先生に影響を受けた人々


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