ポール・リシャール

ポール・リシャールは、1874年(明治7年)に南フランスに生まれ、長じて神学博士ともなったが、宗教によって衣食するのを欲せず、法律を学んで弁護士となった。その間、文壇においても名をなし詩人としても高名であった。彼は哲学・宗教に関心ふかく、ヨーロッパの物質文明は没落の運命はさけられぬと観取し、光を東方に求め、インドに移り、インド革命のリーダーのアラビンダ・ゴーシュと交わった。

大正五年(1916)、旅行のつもりで来日した彼は、日本の魅力の虜となり、ついに4年間滞在、その間、じつにふかく日本の精神文化に分け入り、もっとも日本を識る外国人の1人となった。「議会政治的・黄金政治的個人主義」の民主主義は、やがて欧米でも行詰ると予言し、当時、民主主義に心を奪われていた日本人に警告を発した。『日本の児等に』と題する詩に、日本には7つの栄誉と使命があるとして、

かつて他国に隷属せざりし世界の唯一の民!一切の世の隷属の民のために起つのは汝の任なり 新しき科学と旧き智慧と、ヨーロッパの思想とアジアの精神とを自己の内に統一せる唯一の民!これら二つの世界、来るべき世のこれら両部を統合するのは汝の任なり 建国以来、一系の天皇、永遠にわたる一人の天皇を奉戴せる唯一の民!汝は地上の万国に向って、人は皆一天の子にして、天を永遠の君主とする一個の帝国を建設すべきことを教へんが為に生れたり

と、格調高く日本人を激励した。同様の書に『告日本国』がある。35日間、1歩も外に出ず、精神を凝らし、天来の声を綴ったという。

大正9年1月、リシャール夫妻は、三保最勝閣を訪れ、智学先生の歓待をうけて数日滞在した。霊峰富士を仰いで、彼は「大地が天に向かって合掌している姿だ」といった。その後、ヒマラヤ山麓に住み、さらにフランスからスイスに移り、晩年をアメリカに過した。


創建時の最勝閣(明治43年)

昭和35年、86歳の彼は、「神の子の自覚をもった世界唯一の日本が、その自覚を示した明治の憲法を改めて、神を無視し人間を動物視したものにしたことは残念の極みである」という趣旨の演説を、ロサンゼルスで行った。彼が三保において智学先生のお話を聞き、感銘を語った時から40年を経て、なお彼は日本国体の真髄への理解と確信に少しの動揺もなかったのである。90歳をすぎて彼は星の国アメリカで没したという。


ポール・リシャール夫妻と智学先生

 ポール・リシャール氏が三保に泊って居る中に、驥尾の間から富士を觀望しての理想が、何處から見ても美しい山だけれども、此の山は實に神秘的な山だ(中略)これは世界の大地が天に向って合掌して居る形だといふ見立てをした(中略)
 合掌といふことは敬ひである、他に向っては敬ひであり、自らに對しては愼みである、又承認を與へた意味でもあり、それから威嚴を整へた意味でもあるのが合掌だ、そこで天台大師は『合掌は身の領解なり』―身體で佛法を會得したといふ表示だといった、整った姿、彼と此と調和した姿、相手に奉謝した敬ひの姿であると共に、又自らの愼みを表現して、彼の愼みと此の愼みとが共通合體した形である、富士の形が地の代表者として天に向って合掌したといふ見立ては、實に莊嚴にして偉大なる見立てといっていい。

(「最勝閣來訪者の數々」『師子王談叢篇』六より)


田中智学先生に影響を受けた人々


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