食満南北(けまなんぼく)

大阪・堺の出身。本名貞二、同人号智津。劇作家、通人として名あり。青年時代に田中智学先生の教えをうけ事業奉仕を申出て長滝講師の手許で書生として給仕した。明治24年、大阪に開教、盛んな布教活動が展開された。青年有志の道路布教隊が各所に出動活躍した。その同盟の青年7人は「七賢人」の名をもって呼ばれたが、食満智津もその1人であった。

彼は智学先生を無類の大通人として、生涯景仰しつづけた。その後、芝居の世界に入り、始めは狂言方などをやったが、劇作家をめざして名家鶴屋南北の家を継ぎ、関西劇作家中の第一流と称された。

明治34年、先生が『宗門之維新』の出版を考慮されていたさい、食満は「追善の仏事として、どうか先生の思召だけの部数を私に造らせて下さい」と志して出版費用を義納。約800部が朝野の名士に施本され、それによって高山樗牛が結縁された。

「私は、いわゆる座付作者であり職業作者であり、そして脚本製造業者である・・必要に応じて新作もし、脚色もし補筆もし改作もして来た。しかしそのすべて私の手許にない」と、彼は記しているが、戯曲『徳川慶喜』(昭和4年発行)を自費出版している。松竹社主との話から筆を起したが、「最後の将軍」「大政奉還後の慶喜」各3幕という長篇で遂に上演されることがなかった。作品には彼の慶喜公にたいする敬愛の情がにじみ出ているが、国体の大義名分上大政を奉還した勤王主義の実践者という、智学先生の慶喜観の影響をうけていることは言をまたない。



田中智学先生に影響を受けた人々


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