高山樗牛(たかやまちょぎゅう)

明治34年5月、師子王文庫の同人は有識者800余名を選んで、『宗門之維新』を施本したが、同人諸氏は、当時雑誌『太陽』の主筆として評論界に軒昂たる姿勢を示していた通称「鼻の高山」のことだから、なんとか言ってくるかも知れない、と噂をしていた。

その年の10月25日、高山は突然、要山の師子王文庫を訪ねてきた。 田中智学先生が会われると、きわめて誠実な態度で、「『宗門之維新』を拝読して曾想を改め、これから真剣に日蓮聖人を研究したいと思うので、鎌倉に引越してきたが、ぜひ先生のご指導を仰ぎたい」という挨拶であった。 たまたま部屋の襖絵に、柳田樵谷画伯の描く富士山の絵図があった。樗牛はこれをみて、「ここにも『宗門之維新』がありますね」といった。

思いがけない樗牛の言葉に、先生は後年「これには吾輩も侍坐して居る山川も、実は一驚した」と語っておられる。 樗牛は、雑誌『太陽』に、『宗門之維新』の読後感として、「嗚呼、世に閑文字多し。言はざるべからずして初めて言ふもの果して幾何ぞ。

田中氏の是書の如きは、真に言はざるを得ずして言へるものか」と激賞しているが、樗牛の感激がいかに絶大であったか、これによってもわかろう。

その後の樗牛は、熱烈な日蓮聖人讃仰の文編を次々に発表した。明治35年5月、鎌倉小町の辻説法霊跡において、来朝中のインド大菩提会会長ダルマパーラ師とともに先生より一乗妙戒を授戒された。しかし胸を患っていた樗牛は35年12月、32歳を一期として帰寂した。家族は先生に乞うて、文亮院霊岱謙光日瞻居士という法名を授与された。樗牛は生前、「東京帝国大学に井上哲次郎学長を訪ねて、大学に日蓮主義教学講座を開設するように説得するから、それに備えて先生に準備をして頂きたい」と再三再四うったえていた。病おもく平塚の杏雲堂病院に入院した樗牛を先生が見舞われたときも、彼はその希望を語って、ついに遺言となった。その希望にも促されて、先生はその年の夏、前人未踏の組織宗学『本化妙宗式目』を完成されたのであったが・・。彼は、『宗門之維新』によって知り得た日蓮聖人の大理想たる「本門の戒壇」の聖地とされた富士を相対して永遠の眠りにつくことを欲し、駿河湾の竜華寺山上にその墓をもうけた。樗牛の早世は、彼の前途に多くの期待をかけた先生および同志に大きな衝撃であった。


鎌倉小町辻説法霊蹟にて高山樗牛氏とダルマパーラ氏に授戒

樗牛没後まもなく、神田青年会館に追悼会が催され、先生は請われて追悼の演説をされたが、大町桂月は、日蓮鼓吹は場違いなどの評を『太陽』に載せた。先生は直ちに筆をとり、「故高山博士追悼会に於ける予の演説に就て 大町桂月等を誡む」と題して『太陽』に寄稿された(『全集』論叢篇続所収)。この1篇は先生一代を通じても、最も痛快鋭利な天下の名文といってもよく、さすがの大町も、のちに自著『日本文章史』その他にこれを紹介し、その文気文品を絶賛するに至った。同輩に與謝野鉄幹もいたが、彼も夫人晶子とともに後年、先生へ絶大の敬意を寄せる人となった。樗牛の後日譚として、附記した。

高山樗牛氏の日蓮聖人研究
 『日蓮とはいかなる人ぞ』!。これは故高山樗牛が日蓮上人研究を思い立った時の語である。彼は初めヒドク日蓮上人を嫌って居たのが、一たび予の小著「宗門の維新」を見て、深く感ずる所あり、翻然として昨非を悔い、予に参究して上人を研究すべく、ワザワザ居を当時の予が居住地で、しかも上人の旧跡の多い鎌倉に移して、し切りに研鑚を続けた結果、終に猛烈なる日蓮崇敬者となり、同時に世人にむかって、盛んに日蓮研究を促した時、劈頭にこの語を以って呼び掛けた、この一語の響きは強かった。果たしてそれから一代の風雲を捲起して、世に日蓮研究熱を旺盛ならしめたことは、天下既に周知の事であろう。樗牛歿後の今日でも、樗牛の啓発によって新しく日蓮研究に志すものが絶えずあるのは事実だ。
 ところで、従来日蓮上人の伝記というものは、多くはその宗門の人たちに依って書かれたもので、局外者の手に成ったものは至って少なかった。
 然るに、高山樗牛が、有名な日蓮嫌いから一足飛びに、蹶然起って日蓮研究を天下に唱導してからというもの、所謂局外者側の研究は靡然風を為して、幾多の学者文士等も、相次いで上人を伝するに至って、実に目覚しい現象を呈した。上人の研究が、斯く一般化するに至ったことは、ひとり宗教上の幸いのみでなく、国家世界の文明に於いて、正に一の進歩であった。樗牛が一代の文豪で、且つ思想家評論家としての俊才であった為、その人気が斯く人を動かしたには相違ないが、畢竟、彼が上人に対する傾倒の極めて深く、その崇仰が強烈で、態度も至って真面目であったことが、特に世に強い刺激を与えたのであった。
 この樗牛の呼びかけた声をきっかけにして、茲に上人の研究が、世間一般の手に移され、宛も秘められた宝庫が、一時に開いたかの如く、到る処に研究鑚仰の声はあがり、殆ど万口一斉に上人の偉大さを讃美し、その深さをも称えて、世は日蓮研究の春を迎え、日蓮鑚仰の花咲くに至った事実は、頻々と出る伝記読物や戯曲等に依っても証し得られよう。そこで、予は「樗牛以前」を宗徒の研究時代とし、「樗牛以後」を一般に公開された研究時代と見て、ここに一時代を画して、是からは「宗門の日蓮」でなく、「天下の日蓮」として、公開研究を盛んにしたいと思う。
 その発見報告の第一声たる、『日蓮とはいかなる人ぞ』の声に呼び起されて、真摯な研究をした人に、樗牛の親友姉崎博士は、有名な「法華経の行者日蓮」を書いて、所謂研究者の為に新しい道途を拓いた。確かに亡友樗牛の期待に合した一つと謂っていい。次いでこれも樗牛の親友であった笹川博士も、上人の伝を書いた。これに前後して、知名の学者文士の手に成った数多の伝論戯曲等、いずれも相当の鼓吹力があって、専門家以上に世を益して居ることも事実だ。恐らくこの現象こそは、全く時代必至の機運として、上人の真価が、漸く世に彰われる時節が来たもので、モハヤ「一宗門の祖師」ではなく、入っては「日本の柱」であり、進んでは「世界の救主」であることが、公平に世に承認されかかった文明の一転進として、予は深くこの画時代的の進出を悦ぶものである。しかして、彼の樗牛が門外研究の先頭として、先ず自己の驚きを放って、世に呼びかけた、この『日蓮上人はいかなる人ぞ』の一声が、次第次第に深く嚼み分けられて行くうちに、一歩一歩と真相が知れ、真価が認められるまでに、世が進んで行くものとすれば、この一声は世界人類を代表した声として、ますますこの高貴な問案に対する、忠実な研究が出て来なければならぬ筈だ。『日蓮とはいかなる人ぞ』!!真に大きい課題である。
 予は是より敬愛なる読者と共に、この懸案をどこまで解き得るか、真剣に上人の精神と事業の正味を研究して見ようとおもう。
田中智学先生『大國聖日蓮上人』より


田中智学先生に影響を受けた人々


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