田中光顕(たなかみつあき)

田中光顕は、天保14年(1843)土佐の生まれ、維新の志士の1人である。後に警視総監、貴族院議員、学習院長から宮内次官をへて宮内大臣となり伯爵を賜った。晩年に及んで、田中智学先生を知り、深い敬意をもって接した。

昭和四年12月15日、日比谷公会堂で明治会主催の「教化総動員終結感謝大会」に、田中光顕伯をはじめ名士多数の講演もあった。これよりさきの10月、田中智学先生は中央隊を率いて関西に講演中、大阪で脳症をおこし倒れられ、阪大病院を退院して芦屋で病を養っておられたが、「終結感謝大会」にはぜひ出席したいと言い出された。側近の人がこれを諫止したが、先生はどうしても出席すると言って聞かれなかった。このことを耳にした田中光顕伯は、「国家のため自重する意味で東上を思いとどまられたい。もし私の諫止をお聞き入れなければ、老生は今後、先生の教化をうけない」という趣旨の鄭重な手紙を先生のもとによせられた。その書状につづいて更に書留郵便が届いた。それには「昨日、重大な進言を呈するとき、血判を忘れたから」といって改めて署名し、これに血判をしてよこされた。しかし先生は決意をひるがえさず上京されたが、途中蒲原の光顕伯邸前を汽車が通過するとき、車中から会釈して感謝の意を表された。これには光顕伯も驚かれたらしく、後年、先生の門下某に向かって、「田中光顕がこれまで血判をしたことが3度ある。14歳にして武術入門の際連名帳に血判し24歳にして維新回天の王事に竭すべく、郷関の志士と共に血判した。しかも前2度は一介の処士の血判だが、最後のものは正二位勲一等伯爵田中光顕の血判である。田中先生という人はそれをも押切って自分の意志を貫き通した世にまたとない剛情な人だ」と語ったという。

その「終結感謝大会」で伯は、「田中先生は間口が広くして奥行の深いのであります。世間にも奥行の深い人はあります。しかし、世間の奥行の深い人は専門学者でそれは間口が狭い。私は維新前後に沢山偉い人にも逢いました。けれども、私は近来田中先生ほどの偉い人には始めて逢いました。斯ういう人が、この世の中に居って下されるかと思うと、しみじみ人意を強うするものであります」と、述べている。

光顕伯は、先生より19歳も年長であったが、常に「先生」と敬称した。それは伯が繰返して述懐した「私は10数年間、明治天皇の側近に奉仕したが、先生は私より明治天皇を深く識っておられる。私の在官中に先生を識るに至らなかったことは残念である」という伯の言葉のなかに、云い尽くされているであろう。智学先生が発病せられるや、96歳の伯はわざわざ一之江の先生の病床を訪い、「先生、私はどの点でも先生に及びませんが、お年だけは、どうか私におあやかり下さい」といった。しかしその伯は、先生に先立つこと7ヶ月、昭和14年3月、97歳をもって世を去ったのである。



田中智学先生に影響を受けた人々


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